天地一杯の生命になる
2013-12-26
<内山興正(こうしょう)老師の解説-4>
天地一杯というのは、そんなイヤなほうは捨て、
ウマイほうへ転ぼうという話ではない。
「どっちへどう転んでも」というので、
はじめて天地一杯なのだ。
地獄も不幸も、極楽も幸福も、生も死も、
一目に見ている生命の実物に、ただ坐る。
どっちへどう転んでも、そこで自分のいのちを生きる
という坐りが、けっきょく一番大事です。
そういうことが、いま「宇宙とぶっつづき」になる、
ということです。(中略)
幸も不幸も、悟りも迷いも、生も死もまったく一目に見て、
どっちへどう転んでも、自己は、自己の生命を生きる。
そういう自分が、自分を自分しなければならない。
そういう宇宙一杯、天地一杯こそが「私の帰る処」なのだから。
私たちは、生まれた時から、本来的に「天地一杯の生命」なのだということを深く自覚できれば、「どっちへどう転んでも」という境涯が開けてきます。
「地獄も不幸も、極楽も幸福も」、すべては、自分を取り巻く環境の話です。
それぞれが置かれた環境の中で、「自分がどのように生きるのか?」ということを私たちは問われています。
その問いにたいする内山老師の答えは、「どっちへどう転んでも、そこで自分のいのちを生きる」ことができれば、どっちでも良いではないかというものです。
まさに達人の境地であり、禅の修行をとことんすると、このような大安心の境涯にたどり着けるのかと、ただただ感心いたします。
私たち凡夫は、なかなか、このようにはいきませんが、沢木老師や内山老師の教えを読むだけで、心が軽くなり、明るくなるように感じるのは私だけでしょうか。
そのように感じることができれば、それが、禅の教えの功徳(くどく)であろうと思います。
←「天地一杯の生命になる」前の記事へ 次の記事へ「精一杯の花を咲かせた堂々たる人生」→