天地一杯の生命になる
曹洞宗の禅僧の中で、昭和の時代に最も活躍されたのが、沢木興道(さわき-こうどう)老師です。
その沢木興道老師の残された言葉に、一番弟子であった内山興正(こうしょう)老師が解説をつけた本、『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』(大法輪閣)から、沢木老師および内山老師の教えをご紹介してきました。
その本の中で、内山老師がまとめた沢木老師の教えのポイントは、以下の5か条です。
<沢木興道老師の禅のポイント>
第一、仏法とは、ゆきつく所へゆきついた人生を
教えるものである。
第二、坐禅は、透明なる自己になることである。
第三、坐禅は、自分が自分を自分することである。
第四、坐禅は、宇宙とぶっつづきの自己になることである。
第五、坐禅してもなんにもならぬ。
今回は、沢木老師の教え5か条の第4条「坐禅は、宇宙とぶっつづきの自己になることである。」について、内山老師の解説を見てましょう。
「宇宙とぶっつづきの自己になる」という表現は、沢木老師独特の表現で、「沢木語」とでも言うべきものでしょう。この話頭は、以前も出てまいりましたが、大事な教えなので、内山老師は、手をかえ品をかえ、懇切丁寧に解説されています。
<内山興正(こうしょう)老師の解説-1>
自己は、一切存在を生命体験する根本で、
自己があればこそ、あらゆるものもある。
あなたにとっても、この世界は、
あなたが生きていればこそある。
だからおのおの誰でもみな「一切ぶんの一切」という
生命を生きているのである。
しかし、また、それと同時に「一切分の一」の私を
生きているのでもある。
―自己というものはそういうものなのだ。
内山老師は、もともとお坊さんの家に生まれたわけではなく、早稲田大学の西洋哲学科を大学院まで卒業された哲学研究者でした。それだけに最初は、哲学的な説明から始まります。
「自己は、一切存在を生命体験する根本」という表現は、哲学的な難しい言葉ですが、ようするに、人間は自己によって世界を体験するという意味でしょう。
一見当たり前のことですが、ここで内山老師は、私たちにとって、「自己」というものが一番大切で、一番のより所になるものだということを伝えるために、このように説明されたのだと思います。
「自己があればこそ、あらゆるものもある」「この世界は、あなたが生きていればこそある」という内山老師の言葉は、「自己こそ、すべての根本である。私たちのより所である」ということをさらに強調されるための言葉といえるでしょう。