安岡正篤先生の本との出会い
特に、昭和58年(1983年)に安岡先生がお亡くなりになると、著作権の関係でそれまであまり出版されていなかった安岡先生の講義録や講話録が、プレジデント社のようなビジネスマン向けの一般書を出す出版社からどんどん出版されるようになりました。
それらの本は、安岡先生が主宰された師友協会の講話だけではなく、安岡先生に私淑する企業の経営者が、自分の会社に招いて幹部研修としてご講義いただいたものも含まれていました。
師友協会にしても、企業研修にしても、聴衆は主として一般人ですから、それまで出ていた安岡先生のご本と比べても、大変読みやすいものが多かったと思います。
それでいて、他の著者の本にはない人間学としての内容の深さがあり、次々とベストセラーになりました。1980年代後半になると大手書店に「安岡正篤コーナー」ができるほど再評価が進み、今日につながっています。
もちろん、安岡先生は、昭和20年代の吉田茂の時代から昭和50年代の大平総理にいたるまで、歴代総理の師といわれ、自民党政権には隠然たる影響力があったと思います。
また、経団連の歴代会長を含む財界人にも、安岡先生を心の師と仰ぐ人がたくさんおられました。
しかし、安岡先生の著作の流通状況をみる限りは、1970年代までは、出版点数が少なかったこともあり、一般的な書店ではほとんど見かけない状況でした。
むしろ「進歩的文化人」といわれる左翼的な学者や評論家の本の方が、はるかにたくさん流通し、また一般的によく読まれていました。
70年代までの安岡先生は、一般の読書人からみれば、「知る人ぞ知る」存在だったように思います。
1980年代になっても、私が在学した早稲田大学では、安岡先生の著作を読むように、学生に勧める教授は、ほとんど皆無といってもよい状況でした。
それに関して、私が体験したエピソードをひとつご紹介いたします。
安岡先生がお亡くなりになった後、ご本がベストセラーになったころでした。たぶん、1985年頃だったと思います。
私が、早稲田大学の東洋学の教授に、
「安岡正篤先生のご本は素晴らしいですね」
とお話したら、その教授は、
「安岡なんてのは、世間では評判になっているようだが、
(アカデミズムの)学界では相手にされていないからね。」
と言いました。
その言い方のあまりの冷たさに、ゾッとした記憶があります。
当時は、その教授が異常だったわけではなく、戦後長い間、左翼的な雰囲気の中で、哲学や歴史にかんする文献学を真面目に研究してきた早稲田大学では、安岡先生のような文献学の枠を超えた「人間学」を受け入れることはできなかったのでしょう。
おそらく、東大にしても慶応にしても、他の東京六大学にしても、二松学舎大学や大東文化大学のような漢学の伝統を引き継ぐ大学以外では、どこも似たような状況だったのではないかと思います。