心こそ仏である
2015-08-15
■即心即仏という禅語(2/2)
現代に生きる私たちは、「神様、仏さま」など空想の産物で、実際にはいないという無神論的な考えをすることがよくあります。
あるいは、「サムシング・グレート」(人知を超えた何か偉大な存在)という神仏のようなものを認めても、その正体は解明できないと冷静に考えたりもします。
このような考え方こそ、科学技術を進歩させ、現代の豊かさをもたらしたのですから、ある意味、当然の発想です。
しかし、禅では、誰もが持っている心の中に「仏さま」がいると教えています。
禅の眼、瞑想の智慧によって、自分のことを深く見つめれば、「この心こそ仏さまである」であるという大真実に気がつくというのです。
坐禅をしたり、瞑想をしたり、神仏に祈ったりすることは、「サムシング・グレート」と親しむための方法といえるでしょう。
坐禅によって、誰もが「サムシング・グレート」に親しむことができ、心豊かになれると教えるところが、禅の現代的な意義であろうと思います。
ところで、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」という言葉で注意すべきは、「心こそ仏」といっても、その「心」は自分の欲望に捉われた「小さな自我」のことを言っているのではないことです。
「小さな自我」をそのまま「仏さま」であると混同すると、「何をやってもよい、悪いことをしても許される」という、我がまま放題の「小人(しょうじん)」になってしまいます。
それでは、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」という禅の言葉は、何を私たちに教えてくれるのでしょうか。
どうぞ、つづきをお読みください。