心でも、仏でもない
2015-08-23
■すべてを超越せよ(1/3)
「非心非仏(ひしん-ひぶつ)」とは、そのまま読めば、心を否定し、仏さまを否定する言葉です。
取りつく島のないような突き放した言葉ですが、ここでいう「非」とは、単なる否定ではありません。
「超える」「超越する」という趣旨です。
「心とか、仏さまとか、ありがたそうな教えをさらに超越してみろ」
という意味です。
「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」<心こそ仏である>という馬祖(ばそ)の言葉は、神様、仏さまを自分の外側に求めることなく、自己の心をしっかり見つめなさい、という教えです。
私たち凡夫は、ついつい、世の中の価値観やあふれる情報に影響されて、自分を見失いがちです。
そのような私たちに対して、
「禅によって自分を取り戻せば、心の本来の性能が発揮できて、
自由で楽しい世界が開けるぞ!」
と馬祖(ばそ)は呼びかけています。
しかし、どのような優れた教えでも、それを権威化すると、発想が固定化し、かえって心の自由を失っていきます。そのことを禅では嫌います。
そのために、あえて反対の方向から真理を示そうとするので、禅の言葉には、一見すると矛盾した教えがたくさん出てくることになります。
「仏とはどのようなものですか?」という同じ問いに対して、馬祖が、あるときは、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」<心こそ仏である>と答えました。
別の時には、「非心非仏(ひしん-ひぶつ)」<心でもない、仏でもない>と、まるで反対のことを答えました。
あえて、矛盾したことを答えることで、言葉の先にあるものを直観的につかまえることを私たちに促しているのです。