無門関第四則「胡子無髭(こす-むしゅ)」<その2>
さて、無門和尚(むもん-おしょう)の評唱(ひょうしょう:禅的な批評)の後半部分を見てみましょう。
<評唱の後半:書き下し文>
者箇(しゃこ)の胡子(こす)、
直(じき)に須(すべか)らく
親見(しんけん)一回して、始めて得べし。
親見(しんけん)と説くも、早く両箇(りょうこ)と成る。
<評唱の後半:現代語訳>
「ここにいう達磨(だるま)の話にしても、
一度は彼にぴたり眼と眼の合うような体面をすることが
なくてはならないわけだが、
そう言ってしまうと、
これもまた自己と達磨(だるま)の二人ができてしまって、
始末の悪いものだ」
達磨(だるま)とは、「仏性(ぶっしょう)」のことであることを確認したうえで、読んでいきましょう。
「仏性(ぶっしょう)」とは、誰もが心の中に持つ仏さまとしての性能のことです。
それに目覚めることが、禅の修行の第一歩です。自らの心にあるものを見るわけですから、禅とは、「自己探求」の道であるということになります。
「己(おのれ)を知る」とは、すべての哲学や宗教の基本であると思いますが、禅では、それを徹底することを教えています。
なぜならば、自己の「仏性(ぶっしょう)」を悟ることができれば、あらゆる人、あらゆる存在に、仏性(ぶっしょう)があることに気がつくからです。
宇宙全体が、「仏性(ぶっしょう)」の展開であり、自分の心は深いところで、宇宙全体とつながっていること、万物と一体であることに自然に気がつきます。
そのことに気がつくと、人は自分だけで生きているのではなく、「生かされて生きている存在」であることが分かります。そして、何とも言えぬ、心の安らぎや喜びを感じることができます。
「仏性(ぶっしょう)」に気がつくことを禅の専門用語で、「見性(けんしょう)」と言いますが、「見性(けんしょう)」とは、「仏性(ぶっしょう)を見る」という意味です。あたかも、目で見るように、まざまざと気がつくということです。
無門和尚(むもん-おしょう)が、「一度は、彼(だるま)に、ぴたり眼と眼の合うような体面をする」と言っていますが、これは、見性(けんしょう)することを指していると思われます。