無門関第四則「胡子無髭(こす-むしゅ)」
禅では、
「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏(ほとけ)なり」
といって、誰もが、根本的な本質から言えば、達磨大師(だるまだいし)やお釈迦さまと変わらない、絶対的に素晴らしい心を持っていると教えています。
本来は、誰もが修行によって仏陀(ぶっだ)という悟りの最高位になれるという教えです。
実際には、煩悩(ぼんのう)まみれの私たち凡夫は、なかなか、仏陀(ぶっだ)の境涯にはなれないのですが、人間とは本質的に別の存在であるキリスト教の「神」のような扱いはしません。
むしろ、禅堂では、修行者を励ます意味で、「釈迦も達磨も、もとはただの人ではないか。お前たちも、仏陀(ぶっだ)になれる性能という本質は変わらない」と強調することがあります。
或庵(わくあん)が、達磨大師(だるまだいし)のことを「西から来た野蛮人」とわざと見下げたような言い方をしているのも同じ精神で、達磨大師(だるま-だいし)を神格化しないための禅特有の表現といえるでしょう。
さて、達磨大師(だるま-だいし)は、日本の聖徳太子より100年ほども前の人で、実在を確認できない伝説上の存在です。そのため、実在したとしても、本当の肖像画は伝わっていません。
しかし、古来、禅門では、たくさんの達磨の絵が描かれてきました。専門画家による彩色画もあれば、禅僧が墨だけで書いたシンプルなものもたくさんあります。
いずれの絵も、達磨大師(だるまだいし)は、かならず、たくさんの髭(ひげ)をはやした姿に描かれます。
インドでは、身分の高い人は髭(ひげ)をはやしたが、達磨(だるま)も、偉い人だから髭(ひげ)をはやしているとか、
熱いインドから寒い中国に来て、防寒対策のために髭(ひげ)をはやしたのだろうとか、いろいろな説明があるようですが、
そもそも、達磨(だるま)の存在自体が伝説的なので、髭(ひげ)の理由を詮索してもあまり意味はありません。
ただ、昔から、禅門では、達磨(だるま)は立派な髭(ひげ)をはやしていたと信じられており、髭(ひげ)は達磨大師(だるまだいし)のシンボルともいえるものです。
立派な髭面(ひげづら)がシンボルであるはずの達磨大師(だるま-だいし)のことを指して、
「なぜ、髭(ひげ)が無いのか?」と質問しているのですから、それだけでも変な話です。
普通に鼻を持っている人を指して、「あの人の顔にはなぜ鼻がないのか?」と質問するようなもので、実に意表を突く問いです。
しかも、それが、悟りへの道に修行者を導くための公案だというのですから、鼻をつままれたような不思議な思いがすることでしょう。
そもそも、ここでいう「達磨(だるま)とは、何を指しているのか?」が、大問題なのですが、それについては、続きをお読みください。