無門関第四則「胡子無髭(こす-むしゅ)」
さて、お師家様の提唱録を読みますと、『無門関』第四則にいう「西天の胡子(こす)」すなわち達磨大師(だるまだいし)は、中国に初めて禅の教えを伝えたという「達磨大師(だるまだいし)」のことではないと書かれています。
達磨大師(だるまだいし)を言葉の表面に出していますが、
じつは、誰もが本来備えている仏さまとしての本質、本来の心の性能のことを指しているということです。
禅仏教の禅門用語を使えば、「仏性(ぶっしょう)」ということですが、柴山全慶(しばやまぜんけい)老師は、次のように書かれています。
物(もの)そのものに有無の沙汰(さた)があろうか。
ありのままの物そのものに、自他、大小の消息があるであろうか。
物そのものになれ、鬚(ひげ)そのものになりきれ。
この時、全宇宙が鬚(ひげ)である。
無い鬚(ひげ)が宇宙一杯の鬚(ひげ)となる。
宇宙一杯に有無はない、自他、大小はない。
或庵禅師(わくあん-ぜんじ)のねらいがここにある。
兎(う)の毛ほども分別心が動けば、
それは単なる有無(うむ)の鬚(ひげ)にすぎない。
(柴山全慶著『無門関講話』創元社より)
すべての分別心を捨てた、善も思わず、悪も思わない絶対的な悟りの世界においては、
「あるとか、ないとか、自分とか、他人とか、大きいとか、小さいとか」という相対的なものは何もないと柴山全慶(しばやまぜんけい)は解説されています。
「物そのものになりきれ」とは、よく禅堂で老師方が使われる言い方ですが、この場合は、公案そのものになりきって、達磨大師(だるまだいし)の境涯を味わえということでしょう。
そうすれば、宇宙一杯の自己を悟れるので、ヒゲがあるとか、ないとかは、問題ではなくなります。
「達磨(だるま)にあるはずの鬚がない」というのは、西田幾多郎(きたろう)の「絶対無」を悟ってこいということを言っているわけです。
結局のところ、各人が持っている大先天性である「仏性(ぶっしょう)」を悟れというのと同じことでしょう。
禅の公案は、突き詰めれば、「各人の大先天性を悟れ」、
「自己の仏性を知れ」と言っているわけです。
私たち凡夫の心は、さまざまな煩悩(ぼんのう)の汚れがたくさんついていますので、さまざまな公案によって、多面的に煩悩のを垢を落としていこうという古人の知恵なのだと思います。
さて、本則の公案の解説は、この程度にして、次回以降は、無門和尚(むもんおしょう)の「評唱」と「頌(じゅ)」について書いていきます。