無門関第35則「せい子が二人に分身した」
倩(せい子)という娘の肉体と魂(たましい)が分離して、二人に分かれていたという一種の怪奇小説を下敷きに、五祖法演(ごそ–ほうえん)禅師は、この公案を作りました。
「倩(せい子)が二人に分身したという物語があるが、
結婚生活をしていた倩(せい子)が本物なのか?
それとも、自宅で寝込んでいた倩(せい子)が本物なのか?」
と私たちに問いかけています。
ずっと自宅で病床に寝ていた肉体だけの倩(せい子)が本物か?、
あるいは、魂だけ遊離して恋しい男と駆け落ちした倩女倩(せい子)が本物か?という問題です。
魂(たましい)というと怪しげな感じがするかもしれませんので、
魂を心と言い換えてもよいでしょう。
肉体の倩(せい子)を本物とすると、心はニセモノとなります。
心だけ遊離した倩(せい子)を本物とすると、肉体はニセモノということになります。
しかし実際には、心だけで肉体のない人間はいません。肉体だけで心のない人間もいません。
生きている人間は、心と肉体と分けてみても、どちらが本物とも定められません。人間にとって、どちらも本物です。
このような人間の有り様を禅仏教では、「不二(ふに)」とか、
「一如(いちにょ)」と表現します。
「二ではない」、「一のごとし」ということですが、
あえて、「一」であるとは言いません。
肉体と心とは、イコールではなく、明らかに違いがあります。
しかし、切り離すことはできません。
そこで「一」とは言わずに、「不二(ふに)」とか、
「一如(いちにょ)」とか表現するわけです。
人間の内側において、心と肉体とが、「一如(いちにょ)」であるということは、人間の外側においても、精神と物質が「不二(ふに)」「一如(いちにょ)」であるというのが、禅仏教の世界観です。
<9月のイス禅セミナー:ご案内>
イス禅と禅仏教の古典(『無門関』など)に学ぶセミナーを
9月17日(水)に、秋葉原駅近くの区民会館で開催します。
前半は、誰でもできるイス禅瞑想の実修です。
休憩後の後半は、禅の古典からの講話となります。
禅に関心のある方は、どなたでも参加できます。
日時:2014年9月17日(水)19時~21時(開場18時30分)
場所:JR秋葉原駅そばの「和泉橋区民会館」
(千代田区立の公民館)