無門関第35則「せい子が二人に分身した
つぎに第38則「倩女離魂(せいじょ–りこん)」(せい子が二人に分身した)の現代語訳を掲載します。
こちらは、岩波文庫の『無門関』(西村恵信・訳注)から引用しています。
<本則(ほんそく)>:公案の提示
五祖は僧に問うて言われた、
「倩女(せいじょ)の肉体から魂が抜け去った
という話があるが、
いったい、どちらが本物の倩女(せいじょ)であるか?」
<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>
無門は言う、
「もし、この話のかんどころをとらえ、
真の倩女(せいじょ)はこうだ!と悟ることができたならば、
魂(たましい)が身体から離れ、また身体に入るということは、
ちょうど、旅行に出て宿に泊まるようなものだ、
ということが分かるであろう。
しかし、まだ悟ることができていないうちは、
人生の街道をとりとめもなく走ることだけは、
慎(つつし)むべきである。
突如として死が到来し、身体が分解するときは、
まるで煮えたぎった湯のなかに落ちた蟹(かに)が
手足をバタバタさせるようなもの。
その時に及んで、そんなことは聞いていなかったなどと
泣き言を言ってはなるまい」。
<頌(じゅ)>・・無門和尚による禅的な漢詩
頌(うた)って言う、
雲と月とは、同じもの、
谷と山とは、別のもの。
それがめでたし、めでたしさ!
一でもあれば、二でもあり。
(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)
この本則(公案)もまた、五祖法演(ごそ–ほうえん)らしく、奇抜で人の意表を突くものです。
しかし、法演禅師(ほうえん–ぜんじ)が、この公案の前提としている<倩女(せいじょ:日本風の名前にすれば、セイ子さん)の肉体から魂(たましい)が抜け去った」という怪奇小説の筋書きを知らないと、そもそも、問いの意味さえも分からないでしょう。
そのため、どの老師が書かれた提唱録でも、まずは、題材となった怪奇小説の内容を説明しています。このブログでも、提唱録を参考に、題材となった小説の内容をご紹介しましょう。
<9月のイス禅セミナー:ご案内>
「禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会」(原則月1回開催)
前半は、誰でもできるイス禅瞑想の実修です。
休憩後の後半は、禅の古典からの講話となります。
禅に関心のある方は、どなたでも参加できます。
日時:2014年9月17日(水)19時~21時(開場18時30分)
場所:JR秋葉原駅そばの「和泉橋区民会館」
(千代田区立の公民館)