無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-10

「主客未分(しゅかく-みぶん)」の「絶対の世界」を伝えようとすると、言葉の本来の機能を超えることになります。そのため、禅においては、言葉は月を指さす「指先」のようなものであるとされます。

言葉は、月そのものではなく、あくまでも標識なので、ロジックよって説明するより、詩的な表現によって比喩的、暗示的に示されることになります。

それが禅の話を分かりにくくしている原因ですが、これは、伝えようとしているものが、日常論理では表現できないという本質的な理由に基づくので、仕方がないことでもあります。

禅の智慧が示している「月そのもの」は、言葉つまり「指先」にあるのではなく、指が指し示すその先に見えるものです。つまるところ、「月そのもの」を見るために坐禅をしなさいというのが、禅の教えであるわけです。

もっとも、坐禅だけが「月そのもの」を見る方法ではなく、神仏への祈りでも、他の方法による瞑想でもよいと思います。いずれにしても、日常的な知見をこえる宗教的な智慧によって、心の眼が開かれていくのでしょう。

宗教的智慧というものは、人智を超えた「サムシング・グレート」の世界を伝えようとしているのだと思います。

ただ、宗教や宗派によって、「サムシング・グレート」を「宇宙を創造した絶対的な神」というように、人間をはるかに超えた高みにいます存在と見るのか、「心の奥底にある仏性(ぶっしょう)」とみるのか、の違いはあるだろうと思います。

しかし、神仏に向かって祈っているときでも、本当に一心不乱の状態になれば、坐禅三昧と変わりはないと思われます。一心不乱に祈っている人の心の中は澄み切って、神仏と直接に触れ合っている思いがすることでしょう。

実際に「サムシング・グレート」に触れるというほどの精神的な経験をすれば、坐禅と祈りとの違いなど大したものではないという実感を得られるのではないでしょうか。

そのような「見性(けんしょう)」体験を重んじる禅宗では、希望すれば、キリスト教の宗教者に対しても、改宗を求めることなく、キリスト信者のままで、禅の指導をします。

禅の修行によって、最高のキリスト者になりなさいというのが、禅の精神といえるでしょう。このあたりが、禅の魅力であり、欧米に禅が広まった理由でもあると思います。

禅的な宗教的な悟りがあれば、宗教戦争のような「神の名における争い」は自然と避けられるはずですが、なかなかそうはいかないのが、私たち凡夫の悲しいところです。

Copyright© 2012 二代目、三代目経営者を公認会計士が支援する有徳経営研究所 All Rights Reserved.