無門関第38則「牛が窓をとおる」
次に無門和尚(むもん-おしょう)の評唱にでてくる「下(しも)三有(さんぬ)を資(たす)くべし。」を解説します。
「三有(さんぬ)」とは、仏教でいう「欲界」「色界」「無色界」という三つの世界を言います。詳しい説明をするときりがないので、私たちのような凡夫が生きている世界を言うと理解しましょう。そこには、煩悩(ぼんのう)に悩むたくさんの人々がいます。
禅の修行をして、力をつけたならば、「煩悩(ぼんのう)に悩む人々の力となって、助けてあげなさい」という意味です。
この世において、「菩薩道(ぼさつどう)を行じて、多くの悩み苦しむ人を救う」のが、大乗仏教の理想ですが、それを別の表現で表したものです。
このような菩薩道(ぼさつ-どう)を完全に実践することは、私たち凡夫には、難しいことですが、「自分の悟りだけに満足するのではなく、利他(りた)を重んじる大乗仏教の理想を忘れるな」という教えと理解しておきましょう。
さて、無門和尚(むもん-おしょう)の評唱の最後の部分を確認いたしましょう。
「しかし、そういうことがまだできないとあらば、
ぜひとも、あの水牛の尻尾(しっぽ)だけは、
見届けておくことが先決であろう。」
「四恩(しおん)」に報いたり、「三有(さんぬ)」を助けたりという利他(りた)の行ができるほどの力がないのであれば、まずは、五祖法演(ごそ-ほうえん)禅師が言われた「牛の尻尾(しっぽ)」すなわち「仏性(ぶっしょう)」をしっかり見届けろということです。
無門和尚(むもん-おしょう)の評唱は、「牛の尻尾(しっぽ)」の公案と取り組む意義目的を語って、修行者を厳しく激励する内容です。
江戸時代の白隠禅師(はくいん-ぜんじ)は、五祖法演(ごそ-ほうえん)の「牛が窓を通り過ぎる」というこの公案を「八難透(はち-なんとう)」の一つに数え上げています。
「八難透(はち-なんとう」とは、「八つの特に難しい公案」という意味ですが、ただ難しいのではなく、それだけの功徳のある、取り組みがいのある公案という意味でもあります。
無門和尚(むもん-おしょう)も白隠(はくいん)と同じく、この公案を高く評価されているのでしょう。