無門関第38則「牛が窓をとおる」
平田老師は、さらに言葉を重ねて、説明されています。
「過ぎ去れば坑壍(こうざん)に堕(お)ち」
(現代語訳「通り過ぎれば、穴に落ち、」)
という前の一句は、空(くう)を表します。
「回り来れば却って壊(やぶ)らる」
(現代語訳「引き返しても、粉みじん。」)
という後の句は、有(ゆう)の世界を表します。
だから空(くう)の世界に、おちてもいかん、
もちろん、有(ゆう)の世界に、
後戻りしてしまってもつまらない。
空(くう)の世界を悟りの世界というならば、
有(ゆう)の世界は、迷いの世界というふうに
わけて考えてもいいと思います。
悟りの世界におちてもいかん、
迷いの世界におちてももちろんいかん。
(平田晴耕著『無門関を読む』より)
前半は、「空(くう)」の世界を言っているが、それに落ち込んでもダメ、後半は、「迷い」の世界を言っているが、もちろん、それもダメと二つながらに否定されています。
常識の世界では、「悟り」は素晴らしい、「迷い」はよくないものと
対比して考えるわけですが、禅の教えでは、どちらに偏っても、ダメだということになります。
こういうところが、いかにも禅的です。
「悟り」を振り回すうちは、まだ修行ができていない、大したことのないレベルであると、修行によって苦労して体験した「悟りの世界」すらも乗り越えることが要求されます。
では、禅の教えは、どういうところを目指すのでしょうか?
それについて、平田老師は、次のように書かれています。
悟りと迷いの畔(あぜ)のところを
一刀両断(いっとうりょうだん)のもとに斬って捨てたところ、
そういう世界というものを、
真空妙有(しんくう-みょうゆう)の世界と、
般若(はんにゃ)の学者たちは、よんでおります、
(中略)
こう考えてくると、一本の牛のしっぽでもって、
まさに真空妙有(しんくう-みょうゆう)の世界が
説かれているのです。
(平田晴耕著『無門関を読む』より)
「悟り」と「迷い」を対比させて捉えている間は、まだダメなので、「悟り」と「迷い」を分けているかのように思っている「心のあぜ道」を「一刀両断(いっとうりょうだん)のもとに斬って捨てた」境地を目指せというのです。