無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-10

『因縁経』のように、「尾巴(びは)」<尻尾の先>を「名利への執着心」と捉えれば、たいへん理解しやすい話になります。

人間には、生存のための基本的な欲として、「食欲、睡眠欲、性欲」があるといいます。下等な動物であれば、「食欲、睡眠欲、性欲」だけで十分かもしれませんが、高等動物である人間の場合、人々に認められたいという社会的欲求が強くあります。それが、名利への執着となるわけです。

私たちのような凡夫でも、食欲や性欲などは、年齢とともに、次第におとなしくなって、まだコントロールしやすいといわれています。

しかし、名利への執着心、とくに名誉や名声に対する執着心は大変強い欲求で、相当に立派な人格者でも、完全に乗り越えることは難しいようです。

単純にいえば、人は誰でも他人から認められたい、ほめられたいわけで、その気持ちが、執着心となって残りがちなので、解脱(げだつ)という完全な悟りの妨げになるということです。

孔子が『論語』のなかで、自分の一生を振りかえった有名な一章がありますが、その中に、「六十にして耳順(みみ-したが)う」という言葉があります。

「六十にして耳順(みみ-したが)う」とは、

「知と徳が円熟した境地。世間の評価を超越し、世人の悪評や、ほめ言葉に心の動くこともない。自分の耳に入る言葉は正しく消化されて、何の障害をも起こさない」

(『論語』(吉田賢坑著、明治書院)より)という境地であるとされます。

世間の評価を超越するとは、まさに、名利への執着心を乗り越えた境涯でしょう。

中国最大の聖人であり、お釈迦さまと並んで、尊敬されている孔子様でさえ、60歳になって、ようやく名利への執着心を乗り越えたわけで、私たちのような凡夫にとっては、一生かかってもたどり着けない境地かもしれません。

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