無門関第38則「牛が窓をとおる」
さて、本則(公案)の内容をもう一度丁寧に確認していきましょう。
<本則:現代語訳>
五祖(ごそ)が言われた、
「たとえば水牛が通り過ぎるのを窓の格子越しに見ていると、
頭、角(つの)、前脚(まえあし)、後脚(うしろあし)と
すべて通り過ぎてしまっているのに、
どういうわけで尻尾(しっぽ)だけは
とおり過ぎないのだろうか?」
(岩波文庫・西村恵信訳より)
「窓の外を悠然と大きな牛の巨体が通り過ぎたのに、
なぜ、尻尾(しっぽ)の先だけが通れないのか?」という問いです。
ここでは、まず「牛」とは何の比喩なのか?、
つづいて、「頭、角(つの)、前脚(まえあし)、後脚(うしろあし」(原文では、「頭角(ずかく)四蹄(したい)」)とは、何の比喩なのか?が問題になります。
それを理解した上で、では「尻尾(原文では「尾巴(びは)」)とは何の比喩か?ということが、この公案の参究の眼目になると解説書には書かれています。
そのあたりを柴山全慶(しばやま-ぜんけい)老師の本で確認したいと思います。全慶老師は、まず「牛」について次のように書かれています。
「元来、無名無相(むめい-むそう)ではないか。
いったい「水牯牛(すいこぎゅう)」とは何を象徴し、
何に名づけた仮名であろうか?
ここに禅的な眼が届くか届かないかが、
この公案の第一の関門である。」
(『無門関講話』柴山全慶著、創元社)
禅の悟りの眼でみれば、この大宇宙も、私たち自身も、本来「無名無相(むめい-むそう)」ではないかと言います。
これは、この世界の本質は、「名付けようもなく、形もとらえどころもない」というものということです。
「無名無相」とは、坐禅の三昧(ざんまい)の状態、つまり深い瞑想状態になると、通常の相対的思考が止んで、自分も、世界全体も、すべては「ワンネス(一つ)」という認識になることを言っているのでしょう。
そういう悟りの眼で見ると、あれとこれというような対比によって成り立っている相対的な名前や形は問題ではなくなるという意味です。
そもそも、本質は、「無名無相」なのに、法演禅師は、わざわざ「牛」などを譬え話に担ぎ出している。では、その「牛」とは何を象徴しているのか?」というのが、「この公案の第一の関門」とされます。
これだけでは分かりにくいと思いますが、多くの提唱録は、修行者に疑問を起こさせて、それによって修行を進めるために、あえて、肝心のところをぼかして、問いを投げかけるだけで止めているのが普通です。
分かりやすく説明してしまうと、言葉だけで分かった気になって誤解するので、あえてヒントのみ語りかけるようなことになります。
そのそも、悟りの世界というのは、「無名無相」で、言葉では伝えられず、各人が自分の禅体験によって味わうべきものだからです。
柴山全慶老師も、あえて「牛がなにを象徴しているかが第一の関門だ」と問題提起をして、それ以上の説明をしていません。
しかし、それでは、あまりにも分かりにくいので、もう少し説明していきましょう。