無門関第38則「牛が窓をとおる」
「牛」とは、「真の自己に例えたのだ」と解説されている提唱本もあります。「真の自己」とは、禅の用語でいえば、「仏性(ぶっしょう)」であり、「本来の面目」であり、「無字」でもあります。
たしかに、その通りなのでしょうが、一般人である私たちには、「牛とは、私たちの心の全体を譬えている」と理解した方が分かりやすいでしょう。
「心の全体」というのは、先天的に誰もが持っている尊い「仏性(ぶっしょう)」だけではなく、後天的に身につけた知識・思想・哲学やさまざまな欲望を意味する「煩悩(ぼんのう)」を含んだ、文字通り、「心全体」ということです。
禅で追及するもの、自己探求の対象とするものは、「真の自己」=「仏性(ぶっしょう)」なのですが、私たちは、「仏性(ぶっしょう)」だけで生きているわけではありません。
私たち凡夫にとっては、「仏性(ぶっしょう)」とは、「仏さまのような心の清い素晴らしい人格になれる素質」くらいに理解しておいた方が無難でしょう。
禅の発想から言えば、誰もが「仏性(ぶっしょう)」という「素晴らしい素質、可能性」を持っているのに、煩悩(ぼんのう)にさえぎられて、それを発見できず、使いこなせていないでいるのが、私たち凡夫の姿です。
むしろ、様々な欲望をエネルギー減に、家庭や学校や社会で身につけた後天的な知識や知恵を使って、夢を実現しようと頑張っているのが、私たちの普通の生き方でしょう。
それ自体を悪いというわけではありませんが、あまりに競争的に生きたり、あまりにストレスが大きい環境にいると、心が疲れてしまって、心身の性能が落ちていくことも事実です。
さて、この公案でいう「牛」とは、大きな煩悩(ぼんのう)や後天的な知識などの荷物をしょって、鼻息荒く、頑張って生きている私たちのことであるといえるでしょう。
そのまま一生頑張って、頑張って、頑張りとおすことができれば、それは大変立派な人生であるといえます。多くの歴史上の偉人は、私のような凡人からみれば、信じられないような超人的な努力を長期間続けています。
エジソンも「天才とは、1%の霊感(ひらめき)と99%の汗(努力)である」という名言を残していますが、世の中で大成功を収める人には、「努力する」才能が備わっているとも言えるでしょう。
しかし、どんな優れた人も、一生、失敗も挫折もなく順調な人生を歩めるかと言うとそうでもありません。むしろ、多くの偉人は、挫折を乗り越える過程で、人間として成長し、成功を収めていくのでしょう。
私たちもそうありたいものですが、なかなかそうもいかず、心が折れそうになることが、しばしばあります。
そのようなときこそ、坐禅や瞑想や祈りなど宗教的な智慧によって、心を見つめ、心の重荷をおろし、気持ちを新たにしていくことが必要なのだと思います。