無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」
引き続いて、『無門関(むもんかん)』第48則「他是阿誰(たぜ-あた)」の現代語訳です。
こちらは、岩波文庫の『無門関』(西村恵信・訳注)から引用しています。
<本則(ほんそく)>:公案の提示
東山(とうざん)の法演(ほうえん)禅師が言われた、
「釈迦(しゃか)・弥勒(みろく)といえども、
まだ彼の奴隷(どれい)にすぎない。
ではいったい彼とは誰のことか言ってみよ」。
<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>
無門は言う、
「もし彼をはっきりと見届けることが出来たなら、
たとえば街の雑踏(ざっとう)の中で
自分の親爺(おやじ)に出会ったようなもの。
いまさらそれが親爺(おやじ)かどうかなどと、
他人に聞く必要はないであろう」。
<頌(じゅ)>・・無門和尚による禅的な漢詩
頌(うた)って言う、
他人の弓は、引いてはならぬ、
他人の馬は、騎(の)ってはならぬ。
他人の落度(おちど)は、言ってはならぬ、
他人のことは、知ってはならぬ。
(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳注より)
この本則(公案)は、大変奇抜な人の意表を突くものです。
お釈迦さまとは、もちろん、2500年前に仏教を開宗した方です。
仏教徒があまねく尊敬する聖人であり、過去および現在を代表する仏さまです。
また、弥勒菩薩(みろく-ぼさつ)とは、56億7千万年という遠い未来にこの世に生まれて、衆生を救うという未来の仏さまです。
つまり、仏教徒にとってこの世で最上最尊の存在である「現在・過去・未来を代表する仏さまでさえ、「この人」の奴隷である」と、とてつもないことを五祖法演(ごそ-ほうえん)禅師は言っているわけです。
「お釈迦さまも、弥勒菩薩(みろく-ぼさつ)も、すべての仏さまも、
この人の奴隷(どれい)にすぎない。その人とはいったい誰か?
さあ、言ってみろ!」
と私たち読者にせまる公案です。
さて、それに対して、「評唱(ひょうしょう)」は、『無門関』の著者である無門和尚(むもん-おしょう)が禅的な批評をつけたもので、公案の眼目を示すものでもあります。また、「頌(じゅ)」は、無門和尚が、この公案の精神を漢詩の形で表したものです。
この内容については、老師方の提唱録をもとに次回以降に説明していきたいと思います。