禅の効用 「心に対する効果」-5
「悟り」にも段階があるというのが、臨済禅の基本的な考え方です。最も初歩の悟り体験を「見性(けんしょう)」といいます。
「見性」とは、文字通り、「仏性を見る」という意味ですが、自分の中に尊い「仏性」があることをまざまざと体験的に知ることです。
この「見性(けんしょう)」のレベルであれば、老師の資格をお持ちの方に入門して、きちんとした指導を受ければ、多くの方が体験できます。それなりの努力をすれば、誰でも体験できるといってもよいでしょう。私も、20代の時に白田老師の指導の下で体験することができました。
しかし、「見性」体験は、あくまでも「悟り」体験の出発点であり、老師クラスになるには、たくさんの「公案」を使って、厳しい修行を何年も何十年も続けて、「悟り」体験を深めていく必要があります。
「見性」レベルでは、お釈迦様の「悟り」のレベルには、ほど遠いというべきでしょう。
しかし、初歩の「見性」体験いえども、仕事や学業をしながら修行をする在家禅者にとっては、決して簡単ではありません。
私の場合は、大学生の時に老師に入門して、大学を休んで「摂心会(せっしんえ)」という1週間単位の修行合宿に1年間に10回くらいも参加できたので、坐禅を始めて1年余りで「見性」を体験できました。
学生時代に本格的な修行をされた方は、1年~2年程度で「見性」されるが多いと思います。それでも、個人差がありますから、大学時代4年間、大変、熱心に修行しながら、とうとう「見性」できずに卒業される方もいます。
また、社会人になられてから修行を始めた方は、仕事と修行の両立が大変なので、「見性」まで5年も、10年もかかる方がたくさんおられます。このように初歩の「見性」体験といえども、簡単には体験できません。
ちなみに、道元の曹洞宗では「只管打座(しかんだざ)」といって、坐禅をすることそのものを仏様の姿であるとして、「見性(けんしょう)」などの「悟り」体験を重視しません。
これは、実は、大変高いレベルの話であり、臨済禅でも、老師クラスになると道元の偉大さが、まざまざとわかるようです。
白田劫石老師も、道元のことを大変高く評価されていましたし、最後の著作は、道元の『学道用心集』の講話でした。
ようするに、臨済宗と曹洞宗の違いは、「公案」という道具を使うかどうかの違いであって、最終的にたどり着くレベルは変わらないのでしょう。富士山に登るのに、いくつも登山道があるように、禅の修行にも、公案を使う禅と使わない禅があるということです。
臨済禅では、修行者を励まし、修行の目標になるように公案を与えて、「見性」体験や「悟り」体験をすることを重視します。
しかし、修行が進むにつれて、「悟り」臭さをすべて取り除いて、「悟り終わって、いまだ悟らざるに同じ」というレベルを目指すことになります。