第二十則「大力量人」(解説その1)
このような究極の「大力量人(だいりきりょうにん)」は、なにごとも、「無念」「無心」に行います。
健康な人は、立ったり歩いたりするときに足を意識しません。それと同じように、お釈迦さまが、慈悲(じひ)の行いをするときは、「慈悲」を意識せずに、自然体で「慈悲」を行じます。
松源和尚(しょうげん-おしょう)は、
「歩くときに足を意識せず、立つときに足をあげることを意識しないで、「慈悲」の行いをできるように修行しなさい。
坐禅によって心をみがいて、自分を救うだけではなく、世間の中で苦しむ人々を救いなさい」ということを伝えたいのでしょう。
それを「いったいどうして坐禅から立ち上がろうとしないのか」という問いの形で修行者に投げかけているのです。
「坐禅から立ち上がる」とは、禅堂の修行にとどまらず、世間の中で慈悲の行いをしなさいという意味になります。
しかし、『無門関』は禅の修行者のための本ですから、禅堂の修行を否定しているわけではありません。
自他の対立観念を乗り超えるような禅の修行をすることで、はじめて本当の意味で、坐禅から立ち上がれるのだから、自他の対立観念を超えてみよと突きつけているわけです。
自他の対立観念が旺盛なまま、慈悲の行いをしようと思っても、相手のことが良く見えずに、ありがた迷惑になる恐れもあります。
自他の対立観念を乗り越えること、つまり、自分への捉われから解放されていくにしたがって、相手のことが良く見えて、慈悲の心が深まるのでしょう。
しかし、自他の対立観念を乗り越えるとは、言うは易く、行うは難しですね。私のような凡夫は、いつも自他の対立観念にとらわれています。
お釈迦さまから見れば、立ちたくても、立つこともできずに、もがいているのが、私たち凡夫の普通の姿でしょう。そのことを気が付かせてくれるのが、この公案だと思います。