第二十則「大力量人」(解説その1)
さて、この公案の第二の問いは、以下のようなものです。
<原文>「口を開くこと、
舌頭上(ぜっとうじょう)に在らざる?」
<現代語訳>「どうして、舌を使って話さないのだろうか?」
(岩波文庫・西村恵信訳より)
人は話をするときに、誰でも舌を使って話します。
ところが、大力量人(だいりきりょうにん)は、
「言葉を話すのに舌を使わない」というのです。
言いかえれば、
「舌を使わずに、自由に話せるような人になってみろ」
ということです。
これまた、禅的な無茶な問いかけですが、言わんとすることは、第一の問いと同じです。無我(むが)の境地で話すことを求めているのです。
安谷白雲老師は、「己(おのれ)があっては、うまい仕事はできん。本当に己を捨ててかからにゃだめだ。己が無ければ、宇宙的な光、力、徳が自然に働く」(『無門関独語』)と解説されています。
宇宙的な光、力、徳とは、神仏のご加護(かご)が得られること、つまり、サムシンググレートの応援が得られるということでしょう。
求めて得られるのではなく、自分への捉われを超えて、無我である人が、慈悲の働きをするときに、自ずと神仏から手が差し伸べられるということだと思います。
しかし、私たち凡夫は、いきなりそのような「無我(むが)」の働きが自由にできるわけではなく、まず「道の前で無我(むが)でなければならぬ」と安谷老師は諌めています。
「無我(むが)」というのは、自分の思い込みではだめで、
まずは、素直に「人の道」を学べということです。
仏教に限らず、人類の英知というべき様々な古典は、私たちに「人の道」を教えてくれる書物です。このような古典に素直な気持ちで向き合うことは、「無我(むが)の学び」といえるでしょう。
いきなり「無我」の境地になることは、私たち凡人には無理なことですが、まずは「無我(むが)の学び」という心の姿勢を持ちたいものです。
さて、松源和尚(しょうげん-おしょう)の本則(ほんそく)はこれで終わりですが、それに対して、『無門関』の著者である無門和尚が評唱(禅的な批評)と頌(じゅ)という漢詩をつけています。
それについては、次回以降に触れたいと思います。