第二十則「大力量人」(解説その2)
以前に掲載したものと同じですが、まず、『無門関(むもんかん)』第二十則「大力量人(だいりきりょうにん)」の「本則(ほんそく)」と「評唱(ひょうしょう)」と「頌(じゅ)」の現代語訳を掲載いたします。
<本則(ほんそく)>:公案の提示
松源和尚(しょうげん-おしょう)が言われた、
「修行によって勝れた力を発揮できるような人が、
いったいどうして坐禅から立ち上がろうとしないのか」。
また言われた、「どうして舌を使って話さないのだろうか」。
<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>
無門(むもん)は言う、
「松源和尚(しょうげん-おしょう)、なんと腸(はらわた)まで
さらけ出したものだな。ただ受け止める人がいないだけなのだ。
しかし、たとえきちんと受け止めることができたとしても、
やはりこの無門のところに来て痛棒を受けてもらいたいものだ。
それは何故(なぜ)か。 さあどうだ。
純金かどうかは、火を通せばいっぺんだ。」
<頌(じゅ)に曰(いわ)く>
(頌(じゅ)とは、公案の精神を読み込んだ禅的な漢詩)
頌(うた)って言う、
脚(あし)をあげては 海を蹴(け)り、
頭(こうべ)を下げては 天を見る。
置き場がないよ このからだ、
最後の一句を 付けてくれ。
(岩波文庫『無門関』西村恵信・訳より)
「大力量人(だいりきりょうにん)」の「本則(ほんそく)」についての解説は、前回までのブログに書きましたので、今回は、「評唱(ひょうしょう)」と「頌(じゅ)」について書いていきます。
まず、「本則(ほんそく)」の公案は、松源和尚(しょうげん-おしょう)が、弟子たちに向かって提示したものと伝わっています。
公案とは、「禅的な悟りを促すための問題」であり、現代の臨済系の禅道場では、老師と弟子とが、公案をテーマに密室において「1対1」で禅問答をします。それを「参禅(さんぜん)」とか、「独参(どくさん)」といいます。
この形式は、おそらく中国の宋時代にできたもので、鎌倉時代に日本に伝わり、江戸時代に白隠禅師(はくいん-ぜんじ)によって、公案の体系化がなされ、現代に伝わっています。
13世紀の宋時代に活躍した松源和尚(しょうげん-おしょう)も、公案を使って弟子を教化したのでしょう。特に、この「大力量人」の公案を大事にされ、弟子たちにこの公案を突きつけたのでした。
さて、この公案について、無門和尚(むもん-おしょう)が、禅の精神にもとづいて批評しています。それを「評唱(ひょうしょう)」と言いますが、次にその部分について書いていきます。