第二十則「大力量人」(解説その2)
松源和尚(しょうげん-おしょう)が提示した公案について、無門(むもん)は、以下のように批評しています。
「松源和尚(しょうげん-おしょう)、
なんと腸(はらわた)までさらけ出したものだな。」
松源(しょうげん)は、自分の悟りの境地を弟子たちに伝えようとして、何も隠すことなく、自分のはらわたをさらけ出すように、この公案を提示したという意味です。
いいかえれば、「この公案の意味が本当に分かれば、松源(しょうげん)の悟りが手に入るぞ。だから、しっかりこの公案と取り組めよ」と読者に向かって語りかけているのです。
次に、以下のように書かれています。
「ただ受け止める人がいないだけなのだ。」
無門(むもん)は、「松源(しょうげん)の公案の精神を悟る人は、残念ながらいない」と書き継ぎます。
これは、「『無門関(むもんかん)』の文章を読んだだけで、軽々しく分かった気になるなよ。しっかり坐禅を組んで、修行しろよ」ということでしょう。修行者に対して、励ましの言葉と受け止めるべきと思います。
さらに、無門(むもん)は、厳しく読者に向かって釘(くぎ)を刺します。
「しかし、たとえきちんと受け止めることができたとしても、
やはりこの無門のところに来て、
痛棒(つうぼう)を受けてもらいたいものだ。」
これは、「たとえ自分で公案の精神を理解したと思っても、自己満足せずに、私(無門)のところにきて、本当に悟っているのかどうか、私の試験を受けてみろ」という意味です。
「痛棒(つうぼう)」というのは、禅の世界では、指導者である老師が弟子を叱ったり、励ますために、「棒でたたく」ということがよくあるので、そこから「厳しく指導する」という意味になります。
無門和尚(むもん-おしょう)は、13世紀の人ですから、直接、無門和尚(むもん-おしょう)の指導を受けることはできません。
無門(むもん)の時代においても、本を書く以上は、著者と直接会うことのできない読者がたくさん出てくることになります。
そのことを無門(むもん)は、百も承知の上で、あえて「自分の厳しい指導を受けろ!」と読者に呼びかけています。
これはどういう意味でしょうか?