第二十則「大力量人」(解説その2)

2014-06-30

さて、「頌(じゅ)」の4句目は、普通の詩とは異なり、

「最後の一句を 付けてくれ」

と、あえて読者に問題をつきつけて終わります。

これは、「答え」を教えるよりも、「疑問を起こさせる」ことを重視する禅の指導法に忠実に従った語法といえるでしょう。

読者は、これまでの無門和尚(むもん-おしょう)の言葉を参考に、「自分への捉われから完全に脱出して、宇宙大の精神を持つにいたった精神的な巨人になったとしたら、最後に何というのだろうか?」と考えることを要求されています。

もっとも、論理的に考えても、この問いに対する答えは出ません。
瞑想に智慧によって直観的に心を「悟る」いう禅の教えに素直になって、修行に取り組めば、自ずと答えが得られると無門(むもん)は言いたいのでしょう。

禅とは、結局のところ、「自己探求」であり、そのためには、常に「自己とは何か?」という疑問を心に抱く必要があります。

そのような禅的な深い疑問を「大疑団(だいぎだん)」といい、本格的な禅の修行のためには、必須の要件とされています。
そのような「大疑団(だいぎだん)」を修行者に起こさせるために、『無門関(むもんかん)』のような公案集があるわけです。

では、「自己探求」を極めると、どのような世界にたどり着くのでしょうか?

曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖である道元禅師(どうげん-ぜんじ)は、「自己を学ぶとは、自己を忘れることである」(『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』より)と書かれています。

逆説的な表現ですが、道元禅師の言葉は、坐禅によって小さな自己への捉われを忘れることができれば、宇宙大の自己を学ぶことができるという意味でしょう。

「自己探求」とは、「小さな自己を捨てることだ!」というのが、禅の教えの味わいであり、面白さではないでしょうか。

<第二十則「大力量人」の項、終わり>

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