第二十則「大力量人」(解説その2)

2014-06-30

『無門関(むもんかん)』では、「本則(ほんそく)」として偉大な禅匠の言行録を公案として取り上げています。

その公案に対して、著者の無門和尚(むもんおしょう)が、「評唱(ひょうしょう)」という禅的な注解ないし批評をつけ、最後に「頌(じゅ)」という公案の精神を歌い上げた禅的な漢詩をつけていきます。

『論語』など普通の中国古典の注解では、注解者が、古典本文の意味を分かりやすく解説しようとします。
ところが、自ら修行して禅的な悟り体験をすることを重視する禅仏教では、あえて分かりやすい注解を書きません。むしろ、読者に疑問を起こさせるような書き方をします。

『無門関(むもんかん)』も同様であり、無門和尚の「評唱(ひょうしょう)」という批評も、「頌(じゆ)」という漢詩も、一読しただけでは何を言っているのか、さっぱりわからないような書き方になります。

その『無門関(むもんかん)』に対して、現代の禅の老師方が「提唱録(ていしょうろく)」という解説書を出しています。
『無門関(むもんかん)』は、最も代表的な禅の古典であるだけに、近代以降(明治以降)にかぎっても、数十の提唱録が出ていると思われます。それらをすべて読むことは時間的・物理的にとてもできないでしょう。

しかし、著者が臨済宗の老師であれば、基本的には、江戸時代の白隠禅師(はくいん-ぜんじ)の見方に基づいて書かれていますので、極言すれば、代表的な提唱録を1冊読めばよいともいえます。

とはいえ、どの提唱録(ていしょうろく)も、決してわかりやすいものではありません。

それは、禅の精神にもとづいて、あえて読者に疑問を起こさせるような書き方、あるいは「分かる人には分かる」という書き方になっているからです。

その意味では、提唱録というのは、禅の初心者にとって、不親切で分かりにくい本なのだと思います。しかし、分かった気にさせずに、深い疑問を起こさせることが提唱の目的ともいえますので、やむを得ない面があります。

私もまだ未熟な修行者の一人であり、禅の修行を極めたとは言えないので、提唱録を読んでも、よく理解できないところがあります。
しかし、提唱録を無視してまったく自己流によむことは、禅の歴史を無視することになりますので、まずいことだと思います。

そこで、伝統的な提唱録を参考に、老師方のご提の精神を多少なりともお伝えできたらという姿勢で、書きついで行きたいと思います。

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