精一杯の花を咲かせた堂々たる人生
2014-01-01
達磨大師と同じことを沢木老師は、「坐禅してもなんにもならぬ」と表現されているわけですが、それに対する内山老師の見解は、以下のようなものです。
われわれ「どっちへどう転んでもわがいのち」
を生きるのであるかぎり、
もはや、今さら、どこへもいきようはない。
いく所はないわけだ。どこへもいく所はないのだから、
坐禅したってなんにもならないのは、あたりまえだ。
これ宇宙一杯だから、どうしようもないのです。
私たちは、自分のいのちを生きるしかない存在です。他人のいのちや他の生物のいのちを生きることはできません。
自分に徹してみれば、「どっちへどう転んでもわがいのち」を生きる存在です。
「自分らしく自分のいのちを生きるしかない」としたら、坐禅をしたからといって、自分以外の何かに変化することはないということになります。その意味で、「無功徳」(むくどく)であり、「坐禅をしても何にもならぬ」ということです。
しかし、しばしば、まわりに押し流されて自分を見失い、悩んだり、迷ったり、苦しんだりするのが、私たち凡夫の普通の姿です。
坐禅によって、「自分」という原点に立ち返ることができ、「自分は自分の人生を生きればよいのだ」と心を落ち着けることができるとしたら、それ自体が、大変な功徳といえるでしょう。
「坐禅したってなんにもならないのは、あたりまえだ。
これ宇宙一杯だから、どうしようもないのです。」
という心境は、まさに大安心(だいあんじん)の境涯であり、
そこまでいければ、もはやそれ以上のものは、必要なくなるのではないでしょうか。
沢木老師は、そのような境涯から「坐禅してもなんにもならぬ」と言い、内山老師も、最初は疑問に感じたものの、大分あとになってから、その言葉に深くうなずかれたのでした。
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