精一杯の花を咲かせた堂々たる人生
もっとも、その内山老師でさえ、30歳のときに、沢木老師から「坐禅してもなんにもならぬ」という教えを受けたのですが、それが納得できるようになるには、長い年月が必要でした。
<内山興正(こうしょう)老師の解説-2>
この話を聞いて、私はひそかにこう思った。
「(沢木)老師は口ではああいわれるけれど、
これから老師について坐禅していたら、
ちっとはなんとかなるだろう」
そう思ったんです。
そして、たしかにそれから老師が亡くなるまで、
二十五年間、老師に随侍(ずいじ)し、
坐禅もつづけてきたわけです。
ところが、昭和四十年暮れに沢木老師は亡くなられました。
老師が生きておられる間は、
なんとなく老師をアテにしているところがあったけれど、
今はいよいよその老師が亡くなられてしまったので、
そこで考えました。
「老師について坐禅しつつ二十五年経ったけれど、
おれはちょっとはなんとかなったかな」
と・・・ふりかえってみた。
そしたら本当に、ちっともなんともなっていなかったね。
そして、そのとき思わず口に出たのが、
「スミレはスミレの花が咲く、バラはバラの花が咲く」
という言葉でした。
沢木老師みたいに大輪のバラの花を咲かせる人もある。
私みたいにスミレのような可憐な花を咲かせる人もある。
しかしどっちがいいか、悪いか―そんなことではない。
他とのカネアイなし。
私は私なりに精一杯の花を咲かせればいいのだ。
これが沢木老師遷化(せんげ)直後、
第一に私が感じたことでした。
沢木老師から、「坐禅してもなんにもならぬ」と教えを受けてから、25年間も、内山老師は、沢木老師の弟子として、沢木老師の身近に随侍して、すべてを坐禅の修行にささげてこられました。
お弟子になってから25年目の昭和40年に沢木老師が、お亡くなりになったときに、内山老師は、一番弟子として、沢木老師が創建した禅道場である安泰寺を受け継がれて住職になられます。
沢木老師がお亡くなりになられたのは、内山老師が53歳の時でした。50代の内山老師は、禅僧として油の乗り切っていた時期だと思います。
しかし、沢木老師は、豪傑肌の禅僧で、生前から大変有名でした。本もたくさん出ており、各界にファンがたくさんおられました。
それに対して、沢木老師の一番弟子とはいえ、沢木老師がお亡くなりになったときには、内山老師は、世間的には無名の存在でした。
内山老師の著書の履歴を見ても、沢木老師の生前には、禅関係の本は出しておられません。
沢木老師に遠慮されたのかもしれませんが、趣味としていた折り紙の本を3冊ほど出していただけです。禅関係の本を出し始めるのは、沢木老師が亡くなってからでした。
世間的には無名の自分が、偉大な沢木老師の後を継ぐわけですから、坐禅で鍛えあげた内山老師も、内心は、大きなプレッシャーを感じたのではないでしょうか。