自分に自信がないときはどうするか?(岡本太郎の言葉)
―直(じき)に須(すべか)らく懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)し、
自肯承当(じこうじょうとう)すべし―(『碧巌録』四十一則)
禅の修行においては、崖っぷちからパッと手を放して谷底へ墜落するような覚悟がなければ、自分自身が「これだ」と言いきれる確信を持つことはできないという誡め。われわれの生活においてもまた、人生の真実について自分自身が納得できるためには、一度死線を越えるような体験が必要であろう。
(「臨黄(りんのう)ネット・臨済禅 黄檗禅 公式サイトより
http://www.rinnou.net/ )
「自分に確信を持つために、座布団上で、自分を殺してみよ」というのが、禅道場での修行の会では、常に言われることです。それを示したのが、上記の禅語です。
しかし、実際に「自分を殺す」というほど、自分自身を追い込むことは、なかなかできるものではありません。そのために、自分に自信が持てずに、いつも右往左往しているのが、私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。
現代のように変化が激しく、デフレ経済が続いてストレスの多いビジネス環境では、「自分に自信が持てない」という悩みは、万人共通のものかもしれません。もちろん、私も例外ではありません。
そのようなとき、岡本太郎は、以下のように教えてくれます。
<以下、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』(青春文庫)より>
自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。
ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。
自分が頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。それは“絶対”なんだ。
実力がない? けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。
そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。
我が人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。
ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。
自信に満ちているといわれるけど、ぼく自身は自分を始終、落ちこませているんだ。徹底的に自分を追いつめ、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。
つまり、ぼくがわざと自分を落ちこませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。
ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。
いつも言っているように、最大の敵は自分なんだ。」
そもそも、自信があるとかないとか言うこと自体が、自分へのとらわれであり、すでに自分に負けているということなのかもしれません。
「我が人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ」
という岡本太郎の言葉は、なんと潔く、清々しいことでしょうか。
岡本太郎は、型にはまらない現代芸術に自分を思いっきりぶつけることで、己を殺し、しかも、よく自分を生かした人だと思います。
私たちは、そこまで、自分を追い込むことは難しいかもしれません。
しかし、坐禅であれ、イス禅であれ、あるいは、ほかの瞑想法であれ、瞑想の一時において目指すのは、他と比べることのない絶対的な世界でしょう。絶対というのは、相対に対する言葉で、比較の対象がないということです。
私たちは、一人ひとりが、もともと、他と比べることのできない、かけがえのない存在です。
そのことをお釈迦様は
「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)」
と言われました。
「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)」を文字通りによめば、「この世で一番偉くて尊いのは、ただ私一人である」という意味に読めますが、お釈迦様だけが、一人尊いのではありません。
「唯我の我は、個人的な私の我ではなく、全体的な唯一絶対の我です。天地いっぱい、宇宙いっぱいの自分のことです。その拡がりの中で、今!此処(ここ)に!自分を確かめるとき、宇宙広しといえども、この自分は一人しかいないのです。だから尊いのです。かけがえのない自分なのです。一人しかいないかけがえのない自分なるがゆえ、大切に生きていかねばならないのです。」
(「臨黄(りんのう)ネット・臨済禅 黄檗禅 公式サイトより
http://www.rinnou.net/ )
私たちは、一人ひとりが、尊い存在であり、他と比較する必要はないのです。さらに言えば、宇宙に存在するすべてが尊い存在であり、お互いに因縁によってつながり、深いところで、お互いに支えあっているのだと思います。
「ただ自分の信じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進む」という岡本太郎的な生き方は、「我がままを押し通す」という生き方を意味しているのではないでしょう。
自分を生かしきることで、世の中に貢献し、全てのものを生かしていくという「唯我独尊」的生き方を意味すると理解したいところです。
岡本太郎のように、芸術作品によって人々を感動させる生き方もあれば、人目につかないところで、黙々と自分の仕事をこなし、家庭を守る生き方もあります。どちらが偉いということはなく、どちらも、他に比較できない尊さを持っていると思います。