自己の存在価値を自己において見出す
「自分が自分を自分する」という沢木老師の言葉についての内山老師の解説も、最後のまとめのところにきました。
<内山興正(こうしょう)老師の解説-6>
けっきょく、仏教の話はどこまでも自己こそが根本です。
この自己に落ち着くことを
沢木老師は「自分が自分を自分する」といわれ、
道元禅師は「自受用三昧(じじゅようざんまい)」
といわれたのです。
道元禅師の教えられる坐禅というのは、
この自受用三昧(じじゅようざんまい)であり、
沢木老師の教えもこれが根本です。(中略)
ただ自己ぎりの自己の所でただ坐る、
「坐禅は自分が自分を自分することである」というのは、
自己の存在価値を自己において見出しながら、
本当の生命の実物になるということで、
これが自受用三昧(じじゅようざんまい)の根本です。
沢木老師の「自分が自分を自分する」という言葉は、道元禅師の「自受用三昧(じじゅゆうざんまい)」と同じことであると内山老師は言われます。
道元禅師の「自受用三昧(じじゅようざんまい)」は、
『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の「弁道話」(べんどうわ)に出ています。
道元禅師の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)は、不勉強な私にはとても難しいので、「弁道話」の内容を解説することはできません。
とりあえず、増谷文雄先生訳の『正法眼蔵』(講談社学術文庫)から
「自受用三昧(じじゅようざんまい)」の注記を引用しますと、
「自受用(じじゅよう)とは、功徳(くどく)をみずから受用して、
その楽しみを自ら味わうことであり、
三昧(ざんまい)とは、その境地にひたり切っておることである」
となっています。
増谷先生の注記を見ると、「自受用三昧(じじゅようざんまい)」とは、ひたすら坐禅三昧になって、深い法悦を得ている境地のことを言うようです。
それを内山老師は、
自己の存在価値を自己において見出しながら、
本当の生命の実物になるということで、
これが自受用三昧(じじゅようざんまい)の根本です。
と説明されます。
これを読んで、「なぜ自己の存在価値を自己に見出せるのか?」
「なぜ、それが本当の生命の実物になると言えるのか?」
と、疑問を感じる方もあるかと思います。
これは、自己を超えた「サムシンググレート」(仏性)が自己の中に生きていることの自覚を内山老師が語っている言葉だと思います。
内なる「サムシンググレート」(仏性)によって自分も支えられ、世界も支えられ、すべてが生かされて生きていることを坐禅によって自覚するという深い宗教体験を語っているのではないでしょうか。
内山老師の言葉の底には、言葉では言い尽くせない深い宗教体験があり、それを味わうには、坐禅の修行が必要であるということだと思います。