自己の存在価値を自己において見出す
内山老師は、30歳で沢木老師に出会ってから、25年間、沢木老師がお亡くなりになるまで、沢木老師一筋に修行された方です。
そのような内山老師でさえ、
「坐禅は、自分が自分を自分することである」(沢木興道老師)
という沢木老師独特の言葉の意味を理解するには、かなり長い時間がかかったそうです。
最終的に、内山老師が到達した理解は、
「自分が自分を自分する」とか、
「自己に親しむ」ということは、
「本当の自己の実物として生きる」ということであり、
「自己の存在価値を自己において見い出している」
ことを意味するのだということでした。
内山老師の解説をさらに、
「自己の存在価値を自己において見い出すことが、坐禅の目的である」と言い直すと、私たちにも、かなり意味がはっきりしてきます。
「自分の存在価値を見い出す」とは、生きがいを感じながら生きている姿を言うのでしょう。
あるいは、生きていることが幸せな状態と言いかえても良いかもしれません。
人は、社会的、経済的に成功したり、家族や友人に恵まれたりしたら、普通は、十分に幸せでしょう。
しかし、内省力が強い人は、そのような恵まれた状態にあっても、なお、生きがいを感じられないことがあります。
お釈迦様がまさにそうでした。
お釈迦様は、王家の王子様として豊かで何不自由のない生活をし、美しい妻をめとり、可愛い男の子に恵まれながら、なお、この世の無常に悩み、全てをすてて出家されました。
6年間に渡る苦行でも心の平安を得られず、苦行を捨てて、ただひたすらに坐禅をすること7日目に、暁の明星を見て大悟され、ブッダ(偉大な悟りを開いた人という意味)になられました。
宗教や哲学など人間の生き方を問う教えとの出会いのきっかけは、人ざまざまでしょう。
病気や、経済的困難、親しい人との死別など、実人生における苦しみが機縁になって、仏教やキリスト教などにであい、深い信心を得る方もおられます。
かとおもえば、お釈迦様のように、外面的には、幸せいっぱいの生活をしながら、内面的には深い虚しさを感じて、修行の道にはいられる方もおられます。
どちらが偉いとか、偉くないとかではなく、それぞれのご縁によって、何らかの教えに出会うことができれば、それ自体が幸せな尊いことだと思います。