自己の存在価値を自己において見出す
内山老師のいう「ほかとのカネアイ」とは、受験生が偏差値で自分の学力を測るように、世間的な価値観で、自分を他人と比較して、自分の位置づけを決めることを言っているのでしょう。
社会的に自分の位置づけがはっきりすることは、俗世間に生きる私たちにとって軽視できない、大事なことです。また、自分の立ち位置がはっきりして、世間的にも評価されれば、生活に充実感を感じ、精神的にも落ち着くことでしょう。
しかし、内山老師は、世間的な価値観という外側からのモノサシで自分を測り、世間的なモノサシで計られた自分が、自分の姿であると思っている状態を
「他とのカネアイでできた恰好(かっこう)だけを
自分というものだと思いこんでいる」
と厳しく批判します。
人間という単語は、「ヒトが人と人の間で生きる社会的な存在」であることを示しています。ですから、世間的なモノサシで、自分を測り、自分を把握していく生き方は、人間にとって必要な一側面であることは間違いありません。
それを内山老師が厳しく批判するのは、人間には、別の側面もあることを指摘したいからでしょう。
人間は、人と人との間に生きると同時に、「天」との関係においても生きているのだと思います。
「天」とは儒教的な表現ですが、人智を超えた「サムシンググレート」つまり「神仏」のことです。
人間は、「サムシンググレートに、生かされて生きている存在である」というのが、宗教的な人間観といえるでしょう。
「サムシンググレート」をキリスト教においては、唯一絶対の神(ゴット)と捉えるのに対して、禅仏教では、自己の中にある「仏性」(ぶっしょう)と捉えます。
人と人の関係、つまり社会的関係を横軸としたら、「天」との関係は縦軸というべきでしょうか。
「横軸だけの人生観では、行き詰まることがある。
縦軸である「天」との関係を見失うことがある。
それは、人間を不安にさせ、虚しくさせる原因になる。
だから縦軸を学ぶことによって、より良い生き方ができる」
というのが、内山老師の言いたいことではないかと私は考えています。