自己の存在価値を自己において見出す
内山老師は、さらに言葉をつなげて、説明します。
<内山興正(こうしょう)老師の解説-4>
今の(アメリカ人)社長の場合も、
オレは資本家、オレは会社の社長という、
そういった他とのカネアイでできた恰好だけを
自分だと思っていて、
あるとき、ふっと自分そのものを考えた場合、
自分そのものという自分の実物がない。
そこで急に虚しくさびしくなってしまうのだ。
―そんなことを話してやったら、
思いあたるところがあったとみえて、
ばかに感心して「ぜひ安泰寺で坐禅させてほしい」
といって帰った。
今はアメリカ人の例ですが、
じつはみんな他とのカネアイの姿だけを自分だと思って、
自己の実物にまったく思い至ったことがないので、
虚しいともさびしいとも思ったことがないまま生きている
のだと思う。
内山老師の言われる
「今の(アメリカ人)社長の場合も、
オレは資本家、オレは会社の社長という、
そういった他とのカネアイでできた恰好だけを
自分だと思っていて、」
というのは、世間的な価値観である横軸だけに生きている姿を表現しています。
私たち凡夫の、普通に世間的な生き方です。
それに対して、内省力の高いこの社長さんは、
「自分は大事な何かを見失っているのではないか?」と考え出したのでしょう。
その結果、「サムシンググレートとの関係いかん?」という縦軸の視点を忘れていたことに気がつきます。
その時の心理状態を説明したのが、
「あるとき、ふっと自分そのものを考えた場合、
自分そのものという自分の実物がない。
そこで急に虚しくさびしくなってしまうのだ。」
という内山老師の言葉なのでしょう。
そのような問題意識に思い至るだけでも、この社長さんは、精神性の高い偉い方だと思います。
だからこそ、内山老師の話に大いに感心されたのでしょう。
凡夫たる私たちは、そこまでの問題意識も持てずに、
「じつはみんな他とのカネアイの姿だけを自分だと思って、
自己の実物にまったく思い至ったことがないので、
虚しいともさびしいとも思ったことがないまま生きている」
のだと思います。
「虚しいともさびしいとも思ったことがない」のから偉いわけではなく、もしかしたら、大事な視点を忘れているだけかもしれません。
今は良くても、いつの日か、実存的な虚しさにとらわれることがあるかもしれないぞと、内山老師は私たちに警告してくださっているのだと思います。
さて、ここで内山老師のいう「自己の実物」とは、禅仏教の用語で言えば、「仏性」(ぶっしょう)ということですが、今風に表現すれば「サムシンググレート」のことでしょう。
「サムシンググレート」を人間の外側にある「神仏」と見ずに、自己の内面深くに「サムシンググレート」そのものが生きていると見るのが、禅的な見方です。
人間は、自分の内なる「サムシンググレート」に生かされて生きている存在であることを自覚するための方法が、「坐禅」なのだと思います。