自由な精神の現われ
2015-09-21
■矛盾解決の方法(1/3)
黄檗(おうばく)の問いは、「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏(ほとけ)なり」という禅仏教の最も本質的な教えを踏まえています。
人は、誰もが、本来的に、仏さま、お釈迦(しゃか)さまと同じ心の性能をもっており、お釈迦さまと本質的に平等な存在だという禅の教えです。
禅の修行とは、人間が本来持っている素晴らしい心の性能を磨いて行くことであり、本来の自分に帰っていくことであるとも言えます。
「修行だとか、悟りだとか言っても、心の本質は変わらない。曇った心の鏡のくもりが取れて行くだけだ」ということになります。
さて、人間の本質的な心の性能と言う観点から見れば、誰もがお釈迦さまと同じであり、そもそも、悟りも迷いもないのではないかという見方もできます。
水を熱すれば、水蒸気となり、冷やせば氷となりますが、水も、氷も、水蒸気も、H2O(エイチ・ツー・オー)という水の本質は変わりません。
それと同じように、妖怪に落ちたという老人も、禅堂で弟子を指導している百丈和尚(ひゃくじょう-おしょう)も、
「本質的には絶対平等であり、違いはないのではないか?」ということを黄檗(おうばく)は言いたいのです。
この問いは、禅仏教の大前提を踏まえた問いですから、否定することはできません。
黄檗(おうばく)の問いを否定したら、禅の教えの出発点を否定することになるからです。
しかし、黄檗(おうばく)の言うことを肯定したら、百丈和尚(ひゃくじょう-おしょう)がこれまで話して来たことは、茶番になってしまいます。
肯定してもダメ、否定してもダメという厄介な質問に対して、はたしてどのように答えたらよいのでしょうか?