般若心経について-その3「経題」(4)「波羅蜜多(はらみた)」続き
「波羅蜜多(はらみた)」
さらに、「波羅蜜多(はらみた)」についての山田無文老師の解説を引用しましょう。
「般若の智慧によって、お互いのこの苦しい暮らしにくい
現実の世界を彼岸にしていく。
現実がそのまま彼岸だと悟りを開いていく。
彼岸というものは河の向こうにあるのではなくして、
実はお互いの脚もとが彼岸であった。
お互いの現実をこのままにしておいても、
そこに立派な悟りを開くならば、
ここが立派な彼岸になる。
そう分かることが、
「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」ということであります。
翻訳すると「到彼岸(とうひがん)」、
向こうの岸に行く、理想の国に行くということであります。」
(『般若心経』山田無文老師著、禅文化研究所刊行より)
禅門の教えからいえば、山田無文老師のおっしゃるとおりです。
この世において、「彼岸」という理想世界に行けるように修行するというのが、禅仏教本来の考え方です。
この世において「彼岸」にいくための方法論として、坐禅や公案による禅問答などを使うのが禅宗、禅仏教であると言えるでしょう。
禅宗の歴史を振り替えれば、中国初祖(しょそ)と言われる達磨大師(だるま-だいし)から考えても、1500年ほどの長い歴史があります。
それだけの長い歴史の中で、数え切れないほどたくさんの祖師(そし)と言われる偉大な禅者たちが、自ら厳しい禅の修行をして教えを伝えてきてくださっています。
その間には、修行方法についても、様々な工夫が凝らされており、日本の臨済禅について言えば、江戸時代中期の白隠禅師(はくいん-ぜんじ)によって、現代に伝わる修行方法が確立したと言えるでしょう。
たくさんの偉大な先人の努力により、禅の修行によって「悟り」の世界に到達するための方法論は、確立されていると言えるかもしれません。
ただ、問題なのは、その方法論が、現代社会に生きる普通の社会人には、実行が困難であることです。
実行不可能とは言いませんし、実際にその努力を何十年も続けている方もおられます。人間禅道場だけでも、数百人が真面目に努力されています。
しかし、時間的にも、体力的にも、かなり厳しい修行ですから、万人に開かれた道とは言いにくいように思います。
そのような厳しい禅の修行をできるというだけで、ある意味、恵まれているのかもしれません。
禅の修行をしているとは言っても、私を含めて修行の途中段階におり、「悟りの世界」「彼岸(ひがん)」に到達しているとは、とても言えない人の方が多いと思います。
それでも、まったく禅にご縁がなかった方に比べれば、少しは「彼岸」に近い世界に生きていると言えるかもしれません。
いや、他人様との比較というより、自分の人生を考えてみて、全く禅にご縁がなかったならば、今よりも、もっと暗く苦しい人生だったと思います。
今でも、様々なことにつまづきながら、悩みながら、人生行路を歩んでいるわけですが、学生時代には、3年間も大学を休学するほどのノイローゼ(うつ病?)でしたから、禅との出会いがなければ、どうなっていたかと、ゾッとすることがあります。
とはいえ、厳しい禅の修行を続けることは、時間的にも、肉体的にも、負担が大きいものです。
仕事や家庭と両立しなければならない在家の社会人にとっては、道場にいくということが、既に難しいことでしょう。
凡人が救われるためには、もっと負担の少ない方法論があってもよいのではないかと私は思います。
私自身、そのような方法論を求めているので、『般若心経』を読みながら、仏教的に救われるための方法論も合わせて考えてみたいと思います。