非思量(人間的思わくをはずした世界)
曹洞宗の禅僧の中で、昭和の時代に最も活躍されたのが、沢木興道老師です。(さわき こうどう、道号:祖門、明治13年(1880年)生まれ - 昭和40年(1965年)没)
沢木興道老師の残された名言に、一番弟子であった内山興正老師が解説した本、『宿なし興道 法句参(ほっくさん)』(大法輪閣)から、
沢木興道老師の名言及び教えをご紹介するシリーズの第8回目です。
<法句(沢木老師の言葉)-1>
芝居にも『どうしよう、どうしよう、どうしようぞいなあ』
というセリフがあるが、
わしなぞ『どうしようぞいなあ』というようなことは、
まわり合わせて来んなあ。
―『どうでもいい』と思うておるから
沢木老師の言う「芝居(しばい)」とは、歌舞伎(かぶき)か、歌舞伎風の大衆演劇のことでしょうか。
「どうしようぞいなあ」という芝居のセリフは、今風の言い方をすれば、「一体、どうしたらよいのだろうか?」という意味でしょう。
誰でも、仕事や人間関係やお金や将来への不安などなど、様々なことに悩み、「一体どうしたらよいのか?」と思わず、声を出したり、心の中でつぶやいたりしたことがあることでしょう。
しかし、沢木老師は、「どうしたらよいのか?」ということは自分には起きてこない。それは「どうでもいい」と思っているからだといいます。
この「どうでもいい」は、投げやりな意味ではありません。
仏法の悟りの世界に安住しても見れば、「すべては肯定できる」ものであり、だから自分の問題で「あれが悪い、これが悪いと悩むことはない」という意味だと思います。
中国唐時代末期の禅僧である雲門大師(うんもん、864年生れ-949年没)は、「日日是好日」(にちにち-これ-こうにち)という有名な禅語を残しています。
沢木老師の「どうでもよい」は、「日日是好日」(にちにち-これ-こうにち)という境涯をおっしゃているのでしょう。
「日日是好日」という禅語は、文字通りには「毎日が平安で無事の好い日である」という意味になります。
しかし、そこには、もっと深い意味があり、禅の修行が目指す最も高い境涯が示されています。