「妙好人(みょうこうにん)」-才市(さいち)-その3

2013-05-03

「これはどんな意味かというに、自分の意見によると、
才市の全存在が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)になって居るというのである。あるいはこういった方がよい、曰(いわ)く、
才市(さいち)が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)そのものであると。」
(『日本的霊性』角川文庫版P.253)

「才市の全存在が「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」になっている」という説明は、まさに禅的な解釈で、鈴木大拙らしい表現だと思います。

鈴木大拙が考える「霊性(れいせい)」、つまりスピリチュアリティは、二元的、相対的なこの世界を超えた絶対的なサムシンググレートの世界を語っているように思います。

絶対的なサムシンググレートの世界に人の心が近づくとき、自分という意識が微弱になり、自分を超えた何者か(サムシンググレート)との一体感を感じます。これを禅では「悟り」の体験と呼ぶのだと思います。

とはいえ「悟り体験」にも、深い浅いがありますし、一度の悟り体験ですべてがわかるものでもありません。
臨済禅では、修行者の悟り体験を深めるためにたくさんの「公案(こうあん)」と呼ばれる問題が用意されており、老師の指導の下で、公案修行に取り組むことで、悟り体験を深めていくことになります。

「見性(けんしょう)」と言われる初歩の悟り体験は、努力すれば誰でも体験できると思いますが、それは、スタートラインのようなもので、老師様方の境涯に比べれば、はるかに下ったレベルでしょう。

その老師様方は、長年の修行の中で、私のような凡夫には、なかなか伺い知れない極めて高いレベルの悟り体験をされていると思います。
しかし、老師として修行者を指導される方々といえども、何分、生身の人間ですから、お釈迦(しゃか)様に比べれば、まだまだ修行の途中段階なのかもしれません。

禅には、「釈迦(しゃか)も、達磨(だるま)も修行中」「さらに参ぜよ三十年」などといって、修行者の慢心を諌める言葉がたくさんあるからです。

サムシンググレートの世界は、極めて奥深く、簡単には、人間が理解できない深さ、高さ、広さを持っているということではないでしょうか。

老師様方のレベルまで禅の修行を極めた鈴木大拙から才市(さいち)の詩を見ると、
阿弥陀仏(あみだぶつ)というサムシンググレートと才市の一体感が読み取れるということなのだと思います。

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