『論語』の言葉-4「巧言令色、すくなし仁」②

2012-12-15

日本の芸道、たとえば、茶道にしても、古流の剣道にしても、あるいは、能楽や歌舞伎、にしても、まずは「形」から入ります。
古来から伝えられている「形」を学んで、形に合わせた言動ができるように修練します。
しかし、「形」どおりにできれば、それで修行は終わりでしょうか?

そうではないと思います。繰り返し「形」を学ぶ過程で、「形」をとおして心を練ることが最終的な目標のはずです。そうでなければ、他人を深く感動させることは難しいでしょう。何より、自分が深く感動できません。

禅の修行も同じです。
最初は、坐禅の形になれる、禅堂のルール(規則)になれるというところが出発点です。
それをまず、身につけて、形に合わせた動きができるようになると、次第に、心が落ち着き、形に込められた深い意味に気が付き、精神が練られていきます。

「形は心を規定する」いう言葉がありますが、日本の伝統文化は、形をうまく利用しているといえるでしょう。「形」を整えることで、心を整え、さらには、人格の向上を目指すわけです。

しかし、「形」がきれいにできるようになると、それで満足できる側面があることも事実です。特に、孔子が教えた「礼」の勉強は、言葉使いや外見についても、細かく指導したようですから、それが身についてくるだけでも、一見、立派な人に見えたことでしょう。周りの人からの評価も高くなるでしょう。そうなると、つい、慢心する弟子も出てきたことと思われます。

「礼」という一つのスキルをある程度身につけ、形通りの立派な言動ができるようになった段階で、自己満足に陥るわけです。自分に自信を持つことは大いにけっこうなことですが、それが、過信や自己満足に陥れば、謙虚さがなくなり、人間としての進歩向上が止まってしまいます。

うっかりすると、スキルや外見ばかりが立派で、人間的には、人を見下し冷たく思いやりのない人に退歩してしまうような弟子もいたかもしれません。
それは、孔子の教えに反することです。

孔子は、あくまでも、「君子(くんし)」という立派な人格者になることを目標に学問をし、弟子たちを指導された方です。「君子(くんし)」とは、ただ、見栄えだけが立派な人ではありません。心が謙虚で思いやりがある人でなければ、「君子(くんし)」とは言えないでしょう。

そこで、孔子は、「礼」の修行が進んだ高弟達に向かって、
「礼によって、言動や外見を磨くことも大事であるが、そればかりを考えていると肝心の心を磨くことがおろそかになる恐れがあるから、気をつけなさい。」
という意味で、

「言葉を巧みにし、外貌を飾って人を喜ばせようとすると、己の本心の徳がなくなってしまうものである。」

「巧言令色(こうげんれいしょく)、すくなし仁(じん)」

と言われたのではないか、と私は考えています。

現代に生きる私達ビジネスマンにとっても、あるいは、学生や退職後の方にとっても、
人間関係を円滑に進めるためには、当然、マナーやある程度の表現力(広い意味のプレゼンスキル)が必要です。
特に商談の際には、少し大げさなくらいに、自社商品や自分のことをアピールする必要があるでしょう。
そのこと自体は、孔子も否定はしないと思います。
「礼」の形は、時代環境によって、変わるものだからです。

江戸時代に当たり前だった「ちょんまげ」を普通のビジネスマンがしないように、あるいは、150年前には、誰もが着なかった背広とネクタイを誰もが着ているように、マナーやスキルは、時代とともに変わっていきます。

しかし、いくらスキルが大事であるからと言って、
「それにおぼれてはいけない。それだけで、自己を過信して、謙虚さを失うようでは、人間として最も大事な心の徳がなくなってしまうぞ」
というご注意を孔子はしてくださっているわけです。

その意味で、孔子の言葉は、「巧言令色」そのものを否定したというより、

「巧言令色におぼれて、自分を見失うようなことがあってはならない」

という意味であると私は思います。

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