ビジネスマンのための心を支える禅の話

馬祖道一(ばそどういつ)禅師<七〇九年-七八八年>は、生涯に八十人を超える優れた弟子を育て、中国に禅宗を広めた偉大な禅者でした。その馬祖の弟子のひとりに金牛和尚(きんぎゅう-おしょう)という一風変わった禅匠がいました。

金牛は、自分が老師として指導する禅道場において、典座(てんぞ)という台所係を引き受けていました。毎日、昼食時になると、炊きあがったご飯の入ったおひつを持って道場に現れると、坐禅をしている弟子たちの前で腰を振り足を上げて楽し気に踊ります。

さらに、大声で笑って「菩薩子(ぼさつし)喫飯来(きっぱんらい)」と修行者たちに呼び掛けました。「禅堂内の菩薩(ぼさつ)方よ、ご飯をたっぷり召し上がれ」という意味です。菩薩というのは、もともと大乗仏教の修行者のことを言います。観音菩薩や地蔵菩薩など仏像になる菩薩は、大乗仏教の理想像を象徴するもので。実在するわけではありません。ここで、金牛が言う菩薩とは、本来の求道者のことを指しています。

食前に踊りを踊るという習慣は、今も昔も禅道場にはないのですが、金牛はこのような不思議なことを二十年も続けられたということです。

金牛が引き受けた典座(てんぞ)係は、食事つくりに時間と手間がかかるので、他の人より坐禅をする時間が減ります。そのため、初心者には向かない仕事で、通常はそれなりに修行の進んだ雲水の役割とされます。初心者は、まず坐禅をしっかりやって、心を十分に静めていくことが大切だからです。

逆に修行が進んだ人にとっては、典座は最高の修行の一つとされています。坐禅を「静中(せいちゅう)の工夫」いうのに対して、作務(さむ)のことを「動中(どうちゅう)の工夫」といいます。典座の仕事は、毎日決められた時間までに季節の食材を使って全員の食事を作る必要があります。食材の調達やお金の管理も必要になったりします。そのため、作務の中でも最も難しく、それだけに上級者にとっては、たいへん力がつく作務とされています。

 

上級者向けの作務とはいっても、禅道場の指導者である老師が自ら典座を引き受けることは、普通はありません。老師には老師の役割がありますし、上級者の修行の機会を減らすことになるからです。

しかし、金牛は、少しでも弟子たちの坐禅の時間を増やそうという慈悲心から、自ら典座を引き受けていたのでした。それだけでも弟子思いの奇特な老師ですが、さらに金牛は踊りを踊って「さあ、腹いっぱい召し上がれ」と毎日呼びかけました。何を食べろというのかというと、禅の教えです。「しっかり修行して、立派な菩薩(ぼさつ)になってくれよ」ということです。

奇妙な踊りを踊るのは、何ものにもとらわれることなく、仏の境地に遊ぶという悟りの「遊戯三昧(ゆげ-ざんまい)」を示すためでした。しっかり悟ることによって本当の心の幸せを得て、人生を存分に味わい楽しむことができるぞという意味です。

 

 

これだけでも金牛が大変慈悲深いことが分かります。それをしっかり理解させるために、後世の雪竇(せっちょう)禅師が、「好心(こうしん)にあらず-金牛は単なるお人よしではないぞ、意地の悪いところがあるぞ」という短評を置きました。さらに圜悟(えんご)禅師は、「かえって毒薬になる」とまで評してます。

金牛がやっていることは、自分のことを忘れ、老師の権威も忘れて、弟子たちを励ますためにやっているのですが、それを「好心(こうしん)にあらず」とか「毒薬になる」というのは、後世の修行者が金牛の教えを表面的に解釈することをいさめるための言葉です。

禅の教えは、凡夫の煩悩に悩む心を殺すための毒薬でもあります。凡夫根性を十分に殺すことができれば、立派な菩薩になり、仏にもなるというのが禅の教えです。

もちろん、百%煩悩を殺しつくすことは、お釈迦様のレベルの人でなければできませんが、煩悩を一割減らせれば、それだけお釈迦様に近づくことになります。私のような凡人は、少しづつでもお釈迦様に近づけるように禅を学ぶわけですが、なかなか進歩しないのが悲しいところです。

禅は強力な薬(教え)でもありますが、用い方を間違えると毒薬になります。表面的に金牛和尚のマネをして、本来ふさわしくない場で、踊ったり、怒鳴ったり、奇矯なことをするのは、よくないことです。特別な天才は別として、普通の人間は、それぞれの場にふさわしい振る舞いを心がける必要があるでしょう。

金牛の逸話から非常識な振る舞いをすることが「悟り」の世界であると誤解させないために、雪竇禅師や圜悟禅師が厳しい言葉を置いて、後世の人間に注意を促しています。金牛の慈悲心をほめてもよいところで、あえて辛口な反対の言葉を置くところに禅の面白さがあるとも言えます。

 

 

金牛の不思議な舞いについて、後世の修行僧が長慶(ちょうけい)禅師に「金牛和尚の本意は何でしょうか?」と問いました。それに対して、長慶は、「仏法の喜びを全身で表しているのだ」と答えました。

ここのところを山田無文老師は、「人生に喜びのない宗教はないはずだ」「今日生きておることに喜びを感じ」「毎日の生活をもったいない、ありがたいと感謝しておる」それが本当の仏法だと解説されています。

この長慶の答えについて、さらに後世の修行僧が大光(だいこう)禅師に「長慶禅師の批評の本当の意味は何でしょうか?」と問いました。すると、大光は突然、その場で踊りだしました。ごてごてと言葉で説明せずに、大光自身が金牛和尚の気持ちになって、全身で仏法の喜びを示したのでした。

それを見た質問者は、恐れ入りました、よく分かりました、ありがとうございますとばかりに、無言で丁寧に礼拝(らいはい)しました。大光が全身で示した答えに対して、この修行僧も全身で受け止めたのですから、この人は初心者ではなく、それなりに修行の進んだ人であったと解釈されています。

しかし、これだけでは修行僧の本当の力量が分からないので、大光禅師は、「お前は何がありがたくて拝むのか?」と相手を試す質問をしました。すると、この修行僧は、大光の前で同じように踊りだしました。私もこの通り金牛和尚の心になって踊りますという意味です。

 

 

 

 

■松下幸之助氏の言葉に学ぶ

経営の神様といわれ、人生の達人でもあった松下幸之助氏は、自由なのびのびとした心で、ものを考えるべきことを次の言葉で教えています。

「ものには見方がいろいろあって、一つの見方がいつも必ずしもいちばん正しいとはかぎらない。時と場合に応じて自在に変えねばならぬ。心が窮屈ではこの自由自在を失う。だからいつまでも一つに執(しゅう)して、われとわが身をしばってしまう。身動きならない。そんなところに発展が生まれようはずはない。

万物は日に新たである。刻々(こくこく)と変わってゆく。きょうは、もはやきのうの姿ではない。だからわれわれも、きょうの新しいものの見方を生み出してゆかねばならない。おたがいに窮屈を避け、伸び伸びとした心で、ものを見、考えてゆきたいものである。」

(松下幸之助『道をひらく』P.134より)

今回ご紹介した禅話は、松下幸之助氏の言葉とあい通じるものです。「サイ(仏心)を持ってこい」という短い問いに対して、じつに多様な表現で正解が成り立ちます。それに対して、多様な批評も成り立ちます。自分の答えを自分でけなす雪竇(せっちょう)の言葉も、禅者の自由な心の働きを伝えているといえるでしょう。

禅道場では、老師から「公案(禅問答の問題)は、縦に嚙み、横に嚙みして味わうものだ」と指導されました。「縦に嚙み、横に嚙み」というのは、多面的に様々な角度から問題を見直してみることを言っています。

若い頃は、禅問答だけの特殊な考え方かと思っていましたが、のちに公認会計士となり、実務経験を積むにつれて、「縦に嚙み、横に嚙み」という言葉の深さが分かってきました。

会計の世界も、上場企業の決算書に適用される会計基準では、たくさんの見積もり項目があるため、正解に幅があります。時にはかなり広い幅の中で、どこを正解と認めるのか?会計士としての見識が問われます。そのようなときに一つの見方に固執していると、大事なポイントを見落として、間違った判断に落ちこむことがあります。そうならないためには、事実関係や将来の見通しを十分に吟味し、様々な角度から考え直してみることが必要です。

会計のように、ルール(会計基準)がはっきりしている世界でさえ、答えに幅があるのですから、常に変化しているビジネス環境においては、なおさら幅があるでしょう。何を正解として、どこに向かって進むのか?多くの方が頭を悩ませていると思います。そのような判断に迷うときこそ、「縦に嚙み、横に嚙み」という禅の教えが活きるのではないでしょうか。

 

 

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