メルマガ第4号:達磨(だるま)の話

2014-04-04

■からりとして何もない(2/3)

しかし、さすがに、武帝は、人間のできた熱心な仏教徒だけに、怒りをおさえて次の質問をしました。

「では、仏教の一番の核心となるありがたい教えは、どのようなものじゃ?」という、するどい問いです。

それに対する達磨大師(だるま-だいし)のお答は、「廓然無聖(かくねん-むしょう)」でした。

現代語におきかえれば、「からりと晴れた大空のように(廓然)、ありがたいものなど何もないわい(無聖)」というものです。

これには武帝も驚いたようで、「仏教には、功徳(くどく)もなければ、ありがたい教えもないとは、いったい、この禅僧は何を伝えに中国にきたのだ?」といぶかしんだようです。

そこで、武帝は、第三問として「ありがたいものが何もないならば、禅の教えを伝えるお前は、いったい何者じゃ?」と質問しました。

それに対して、達磨大師(だるま-だいし)は、「不識(ふしき)」と答えました。「そんなこと、知らんわい!」という意味です。

なんとも取りつく島のないような、突っ放した答えに、さすがの武帝も、あ然として、一連の問答は終わりました。

「無功徳(むくどく)」「廓然無聖(かくねんむしょう)」「不識(ふしき)」という達磨大師(だるま-だいし)のお答は、いかにも禅問答らしいものです。

ようするに、功徳を期待したり、ありがたそうな教えや偉そうな人にすがっているうちは、仏教の本当のありがたみはわからないと、達磨大師(だるま-だいし)は言いたいのでしょう。

なぜならば、誰もが、本来、素晴らしい生命の輝き(仏心)を生まれながらにもっており、それを自分で磨いていくことによって、おのずから功徳が生まれるというのが、仏教の教えだからです。

それを丁寧に説明せずに、あえて謎のような短い言葉を投げかけて、自分で考えさせるように仕向けるところに、禅の面白さがあります。

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