人間禅道場の紹介①

2012-12-15

私が最初に坐禅の仕方をおそわり、のちに白田(はくた)劫石(ごっせき)老師に入門した、択木(たくぼく)道場は、大正4年に建築された大変由緒ある道場で、初代の老師(ろうし:禅会の指導者)は、両忘庵(りょうぼうあん)釈宗活(しゃくそうかつ)老師という臨済(りんざい)禅の世界では、有名な禅僧でした。

釈宗活(しゃくそうかつ)老師は、明治時代に鎌倉の円覚寺の管長をされて、夏目漱石も坐禅の指導を受けた釈宗演(しゃくそうえん)老師という老師の一番弟子です。
釈宗活老師は、禅の修行がある段階に達して、「師家(しけ)」として他人を指導できる資格(印可:いんか)を釈宗演老師からいただいておりますから、そのまま、円覚寺に残っていれば、将来、円覚寺の管長になられたかもしれません。

しかし、明治時代は、文学者の夏目漱石が、東京からわざわざ鎌倉まで坐禅をしに通ったように、あるいは、日露戦争で大活躍した乃木(のぎ)大将も、南天棒(なんてんぼう)老師という当時有名な禅僧に熱心に参禅したように、居士(こじ:僧侶ではない一般人)の間で、仕事の傍ら、本格的な禅の修行をしたいという気持ちが大変高まっておりました。

そこで、東京で熱心に坐禅をしていた方々が、蒸気機関車しかない時代に、別な仕事を持ちながら、東京から鎌倉まで坐禅に通うのは大変なこともあって、東京に居士(こじ)のための禅会を作りたいと円覚寺の釈宗演(しゃくそうえん)老師に相談されました。

それを受けて、釈宗演老師の一番弟子であった釈宗活老師が自ら希望されて、明治の終わりころに鎌倉円覚寺を出て、東京で、一般社会人や学生のための坐禅会を始めたのでした。

その坐禅会は、釈宗活(しゃくそうかつ)老師の両忘庵(りょうぼうあん)という庵号から「両忘禅協会」と命名されました。最初は、日暮里近辺の貸家を借りたりして坐禅会を開いていたそうですが、次第に会員が増えてきて、専用の禅道場が必要になりました。

大正4年に、田中大綱(たいこう)さんというお金持ちのお弟子さんが、日暮里駅の谷中墓地側に釈宗活老師の主宰する居士禅会(両忘禅協会)のために、専用の禅道場を建築して寄付され、それが、「択木(たくぼく)道場」と名付けられた次第です。

私が、初めて、択木道場に行ったときには、大正4年の建物がそのまま残っており、何とも古色蒼然とした雰囲気があり、まずは、その建物に入っただけで、何ともいえず心が落ち着く気持ちがしました。
(ちなみに、択木道場は、平成6年に老朽化により建て直されており、今は、2代目のきれいな建物になっています)

釈宗活(しゃくそうかつ)老師のお弟子さんとしては、昭和21年から26年にかけて、妙心寺と大徳寺の管長を歴任され、裏千家の前家元である千玄室氏の禅の師でもあった後藤瑞巌(ずいがん)老師が有名です。後藤瑞巌(ずいがん)老師は、僧侶でしたが、東京大学をでた秀才です。

両忘禅協会は、居士禅の団体でしたから、釈宗活(しゃくそうかつ)老師以外の師家(しけ:禅会の指導者で「老師」とよぶ)は、出家していない居士(こじ)でした。

その中でも、居士の一番弟子が、立田英山(たつた えいざん)老師です。立田英山老師は、東大の学生時代に釈宗活老師に弟子入りし、釈宗活老師を支えて両忘禅協会を発展させた方です。中央大学の一般教養課程で生物学を教える科学者でもありました。

昭和24年に両忘禅協会は発展的に解散し、立田英山老師を初代の指導者として人間禅道場ができました。性別や社会的立場を超えて、誰にでも開かれた禅道場を作ろうという理想の元に「人間禅」という、あまり仏教的ではない新しい感覚の名前を付けられたそうです。

<余談>
夏目漱石の『門』という小説に主人公が禅寺で坐禅の修行を体験する話がでてきます。これは、夏目漱石の実際の体験談に基づいています。
『門』のなかで、主人公を指導する禅僧が、当時の円覚寺の管長であった釈宗演(しゃくそうえん)老師です。

また、主人公の身の回りの世話をしてくれたお坊さんとして「宜道(ぎどう)さん」という若い僧侶が出てきますが、これのモデルが、釈宗活(しゃくそうかつ)老師です。

夏目漱石は、釈宗活老師を尊敬されていたらしく、釈宗活老師が東京に出てこられてからも、親交があったそうです。

夏目漱石が亡くなったのは、大正5年であり、択木(たくぼく)道場は大正4年に建築され、釈宗活老師はそこに住んでおられましたから、もしかしたら、夏目漱石も択木道場に一度くらいは遊びに来たかもしれませんね。

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