今東光の毒舌人生相談-その6「神や運命について」(3)

2013-05-03

禅道場では、修行合宿のことを「摂心会」(せっしんえ)といいます。ときに、一般の人に読みやすいように「接心会」(せっしんえ)と書く事もあります。

私が禅の指導を受けた人間禅道場では、「摂心会」(せっしんえ)を「一定期間(通常1週間)門外不出で坐禅道場(会場)に詰めて世間の一切を一時棚上げして行う本格の禅修行の場」と説明しています。

老師の指導のもと、終日、坐禅や作務(さむ)などに励み、心を練る場です。一日の日課が決まっていますが、一日中、道場にいれば、8時間から10時間位、坐禅をしていることになります。

坐禅以外の作務(さむ)や食事などの時間も、私語をせず、心を鎮めて、数息感や公案などの工夫三昧(くふう-ざんまい)に過ごす修行の会です。

とはいえ、人間禅道場は、在家禅の会ですから、社会人あるいは学生としてそれぞれの社会的責任を負っています。
そのため、会社等に出社する、学校に通うなど、外出の必要も当然ありえます。そのような場合は、道場責任者の許可を得て、適宜、道場を離れ、仕事や学校が終われば、道場に戻り又寝食を共にして、修行に励む時間を過ごします。

「摂心会」(せっしんえ)は、慣れるまでは肉体的には、かなりしんどいことです。初心者のうちは、ひたすら我慢大会になることが多いものです。
私自身も、最初の摂心会は、まさに我慢大会状態で、痛みに耐えることで心を鍛えることが、摂心会の目的ではないかと誤解したくらいです。

しかし、経験を積むにつれて、次第に体が慣れてきて、坐禅が深まり、修行自体が楽しくなってきます。
「摂心会」(せっしんえ)が進むうちに、心が鎮まり、腹の底から精神的エネルギーが湧いてくるような感じがします。

そうなると、肉体的には厳しいはずの「摂心会」(せっしんえ)において、とても充実した時間を過ごすことができます。

このように、かなり厳しい修行の時間をもつ目的は、今東光師のいうように、「神なり仏なりと心を接し、道を求めること」にあると思います。

「神や仏がどこにいるのか?」が大問題ですが、禅では自分の心を見つめることで、それを求めていきます。
老師からは「自己とは何か?」という問いを投げかけられ、坐禅を通して、深くそれを追求していきます。

やがて、多少なりとも、初歩的な悟り体験をすると、「自己とは何か?」という問いは、実は、「神とは何か?」「仏とは何か?」と本質的に同じことを問われていたのだということに気がつくことになります。そこが、禅の大きな魅力であると思います。

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