今東光の毒舌人生相談-その6「神や運命について」(6)

2013-05-03

この言葉について、禅僧の松原泰道(まつばら-たいどう)師は、『般若心経入門』の中で、禅仏教的な深い解説をされています。

<『般若心経入門』松原泰道著より>

巡礼や遍路(へんろ)さんの笠に「同行二人」(どうぎょう‐ににん)と書かれてある旅の道づれは、
観音さまや、弘法大師さまですが、巡礼や遍路は「日常の私」であり、観音さまやお大師さまは「本質(本来)の私」にほかなりません。

ことあるごとに泣いたり笑ったりする感性的な「日常の自我」と、それに呼びかける「本来の自己」の同行二人(どうぎょう‐ににん)は、ときには並び、ときには前後し、さらに影と形とが重なりあって、まるで一人の人格のようになって毎日を生きるのが、ほんとうの生き方なのです。

ところが、現代人はたいせつな本質的な自己が不在で、日常的な自我の一人ぼっちです。

弘法大師様や観音様とは、「サムシンググレート」の象徴ですが、それが「本来の自己」であると捉えるところが禅的です。それを深く自覚することが「禅の悟り」です。
本来の自己と「サムシンググレート」とは、同じものであると禅的に理解すると、お遍路さんだけではなく、私たち全員が、常に「同行二人」(どうぎょう‐ににん)であるということになります。

しかし、悲しいことに、私たちは、そのことをしばしば忘れてしまいます。
そのことを松原泰道師は、「現代人はたいせつな本質的な自己が不在で、日常的な自我の一人ぼっちです。」と鋭く指摘されています。

私たちが、つい慌ただしい日常生活の中で、忘れがちな「本来の自己」を思い出すために、坐禅をしたり、四国巡礼をしたりするのだと思います。

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