今東光の毒舌人生相談-その2「ウマの合わない上司」(3)

2013-05-03

自分が他人に好かれたいと思うから、他人のこと、他人の目線が気になってしまう。いっそ、「嫌われてやれ」くらいに思っていれば、他人の思惑に振り回されずに済むということです。

かっこよく言えば、「自分を見失わない生き方」「自主独立の精神」を勧めていると言えるでしょう。実は、これは、仏教の基本精神であると思います。
「仏教は心理学的な宗教である」と言われることがあります。
自分の心の動きを見つめ、自分で自分の心を清めて、お釈迦(しゃか)様という理想人格に近づく努力をするということが、すべての仏教の修行の基本です。禅仏教でも、その基本は、変わりません。

仏教の宗派の違いは、「心を清める」ための方法論の違いであると思います。浄土教のように、人間の心を汚している「煩悩(ぼんのう)」の強さを正面から見つめると、自力の修行ではとてもお釈迦(しゃか)様の境地に至れないという考え方も出てきます。
浄土教では「阿弥陀仏(あみだぶつ)」というサムシンググレート(人智を超えた偉大なる存在)のお力によって、「他力」によって成仏しようという宗旨になります。

しかし、浄土教においても、お釈迦(しゃか)様がご自分の修行によって成仏したことは当然、認めています。また、「誰にも本来は、自力成仏の可能性がある(仮にその可能性が極めて低いものであっても)」ことまでは否定しないと思います。
ただ、「この自分が、自力の努力で成仏できるかどうか」ということが問題になるわけです。

法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)という浄土教の偉大な祖師(そし)方は、「自分や多くの人にとっては、自力の成仏は難しすぎる」と見極めて、他力の道を選んだのでした。それは、多くの人々を救った「偉大な選択」「偉大な宗教的決断」であったと思います。
禅宗は、自力成仏を信じており、坐禅によって、あるいは、公案(こうあん)という問題に取り組むことで、心を清めていく修行に取り組みます。

修行の出発点は、「自己とは何か」という問題です。
そして、修行の結果、最終的に明らかになるのも「自己とは何か」という問題だと思います。

「自己」がわかれば、「他人」や「世界」を理解するための「原点」を確立できます。あとは、様々な経験や学びを通じて、世界に対する理解を深めていけばよいということになります。

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