南泉(なんせん)が猫を斬る!

■堂々巡りの議論

中国は唐の時代に禅宗が大変盛んになり、歴史に名前の残る偉大な禅者が輩出しました。その中の一人に、南泉(なんせん)がいます。南泉(なんせん)といえば、「南泉斬猫(なんせん-ざんみょう)」という大変有名な禅話があります。僧侶である南泉(なんせん)が、弟子たちの前で猫を斬り捨てたという物騒な話です。
生き物をむやみに殺してはいけないという戒律のある仏教僧が、なぜ猫を斬るような殺生をしたのでしょうか?そこにどのような意味があるのでしょうか?以下にご紹介しましょう。

ある日、南泉(なんせん)の禅道場で、東西の禅堂の弟子たちが、一匹の猫をめぐって争っていました。当時のお寺では貴重なお経をネズミがかじるので、ネズミよけに猫を飼う習慣があったそうです。その中の一匹の猫をめぐって、東側の禅僧が「こちらが先に拾ったのだから、こっちの猫だ」というと、西側の禅僧が「いや、こちらがエサをやっているから、こっちの猫だ」と争いが始まりました。厳しい修行に明け暮れる修行者にとっては、はじめは息抜きの遊びだったのでしょう。
そのうち、「猫のような動物も、人間と同じように成仏できるのか?」などと、猫をめぐって難しい議論が始まり、たいそうな騒ぎになりました。禅の修行者といえども普通の人間ですから、未熟なうちは頭に血が上ることもあります。お互いのメンツをかけて、議論はああでもない、こうでもないと堂々巡りになり、騒ぎが大きくなりました。
現代の会社の会議でも、アイディアを出す段階が終わって、結論を出すべきときになっても、決め手を欠いて結論を出せずに、延々と会議が続くことがあります。やがて時間切れになって次回に持ち越しになり、貴重な時間が浪費されたりします。猫を巡る騒ぎも、それと似たような状況だったのでしょう。

弟子たちの騒ぎを聞きつけた南泉(なんせん)は、いきなりその猫をつかまえると、弟子たちの面前につきつけて言いました。「さあ、この猫について、お前たちの意見をはっきりと言え!正しいことを言えたら、この猫を許してやるが、言えなかったら、猫を斬る!」
南泉(なんせん)は、片手に猫を引っさげ、もう一方の手に作務(さむ)で使う草刈り鎌を持って、すごい形相で弟子たちをにらみつけました。それまで盛んに議論をしていた弟子たちですが、師匠の南泉(なんせん)の勢いに恐れをなして、皆しゅんとして何も言えなくなります。すると、南泉は持っていた草刈り鎌で、猫の首を斬ってしまったと伝わっています。
もっとも、実際に猫を斬り殺したわけではなく、斬るマネをしただけで放してやったと思われます。中国では、「白髪三千丈(はくはつ-さんぜんじょう)」<年老いて長年の憂いのために白髪が九キロもの長さになってしまった>のように、伝統的に誇張した表現を好みます。元の漢文では、たんに「猫を斬る」となっていますが、弟子を指導するのに、わざわざ猫を殺す必要はないでしょう。あくまでも文学的な表現であると理解したいものです。
それにしても、猫の首を斬るマネだけでも、仏教の殺生戒(せっしょうかい)=「生き物を殺してはいけないという戒律(かいりつ)」の精神に反する行いです。禅道場の指導者で仏教僧である南泉(なんせん)が、なぜ猫を斬るのか?というところが、この禅話のポイントになります。

 

■この世に自分の所有物はない

南泉(なんせん)が斬ろうとしたのは猫ではなく、弟子たちの妄想(もうそう)を斬り捨てようとしたのです。妄想(もうそう)といっても、夢のような怪しい話ではありません。禅の世界では、事実をありのままに見ることを大事します。そのため、事実を離れて、あれこれと頭で考えたへ理屈は、すべて妄想(もうそう)であると捉えます。
そもそも、猫を誰かの所有物と決めることができるのでしょうか?
現代の感覚で言えば、ペットは飼い主の所有物ですが、禅的な見方に立つと必ずしもそうではありません。達磨大師(だるま-だいし)が伝えたとされる「一心戒(いっしんかい)」では、「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」<他人の物を盗んではいけないという戒律>について、次のように定めています。
「不可得(ふかとく)の法において、可得(かとく)の見(けん)を生ぜざるを名づけて、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)となす」
現代語に訳すと「本質的には個人の所有物ではない万物の存在について、所有できないと考えるのが、「盗みをしないこと」である」となります。端的に言えば、「この世の中に自分のものと言えるものは何一つない」という意味です。

財産については、社会のものをしばらく預かっているだけであると捉えます。現代的な感覚で「自分の財産は自分のもの」と考えたとしても、現実に長期的に財産を保持することは、意外に難しいことです。有能な方は、自分一代であれば、多額の財産を保持できるかもしれません。しかし、変化の激しい現代では、世代を経るにつれて、資産を減らすリスクも大きくなります。ときには、投機にはまって、巨額の財産を一気に失うようなことも起こり得ます。
財産ではなく自分の身体はどうかというと、これも天からの預かり物であり、自分の自由にはならないものです。誰も望んだわけではないのに、病気をしたり、老いたりして、やがて必ず死ぬときが来ます。永遠の健康を保てる人は、この世に一人もいません。
このような現実の姿を素直に見つめれば、「何かを自分のものにできる」という考え方自体がひとつの執着であり、妄想ではないかといえます。禅は、心の中の執着から自由になることを理想としていますので、その理想から見れば、「何かを自分の所有物として自由にできるという考え方は、天から物を盗むことと変わらない」ということになるのです。

南泉(なんせん)の弟子たちは、猫の飼い主から始まり、ややこしい仏教学の問題になって、お互いの考えに執着して言い争いました。そのうちに出口のない堂々巡りの議論になります。それを見た南泉(なんせん)は、「自分の思いこみにとらわれずに、この世の真実をしっかり見なさい!」とばかりに、議論のきっかけとなった猫を斬ったのでした。
「猫を斬る」というのは、一種のショック療法ですが、なぜそこまでするのかというと、人間の我執(がしゅう)がとても根強いからです。これは自分のものだとか、自分の言い分が正しいとか、人は誰でも自分にこだわります。自分への執着は生存本能の裏返しでしょうから、ある程度は止むを得ないことですが、度が過ぎれば害となります。本能に根ざす強い我執は、しばしば強い思い込みになって表れます。強い思い込みを乗り越えるためには、ときには非常識な発想が必要になるという教えです。
また、こちらの思い込みが強くなくても、現実の状況が厳しくて、いくら考えても判断がつかないこともあります。チームのリーダーになれば、いくら検討しても結果の良し悪しを予想できない中で、決断をしなければならない場面に出会うことがあるでしょう。そのような苦しいときに、失敗のリスクを負って決断できるかどうか、リーダーとしての勇気が試されます。
困難な状況でリーダーが我執に囚われて、全体の利益よりも自己保身を優先すると、しばしば間違った方向にチームを導くことになります。困難の中で利己的な考えを棚上げして、冷静に判断するためには、我執を抑える発想が必要です。「南泉(なんせん)が猫を斬る」という禅話は、我執を乗り越えて、時には思い切った決断が必要なことを私たちに教えているのです。

 

■シンプルに現実そのものを見る

禅は、シンプルに考え、現実そのものから離れないことを大事にします。「真理は現実の中にあり」という発想法です。
私たち凡夫は、自分の考えにとらわれると、しばしば現実が正しく見えなくなり、間違った方向に進んでしまうことがあります。そうならないために、情報をたくさん集めたり、論理的な思考を積み重ねたりするわけですが、一つ一つの情報や理屈は正しく見えても、最終的には、現実離れした誤った結論になることがあります。公認会計士である私の経験から言えば、データと理論を重んじる会計の世界でも、ときどきそのような困った現象がおきます。
理論的に検討した結論に違和感があるときは、細部にとらわれずに全体的に考え直して、常識的におかしな点がないかを確認することが大事です。常識的に考えておかしいと感じる結論には、どこかに事実認識の間違いや理論の適用間違いがあるというのが、会計士の世界の経験則です。
全体的に考えるということは、専門家の視点を忘れて、あえて世間の視点でシンプルに考えてみるということでもあります。専門家ほど専門にとらわれて視野が狭くなりがちです。専門家が納得しても、世間一般の人から見て腑に落ちない議論は、どこかに間違いが潜んでいることが多いものです。これは、会計の世界だけではなく、ビジネス全般にいえることではないでしょうか。

 

■趙州(じょうしゅう)が草履(ぞうり)を頭に載せる

南泉(なんせん)は「猫を斬る」という大芝居をうって、弟子達の妄想を斬り捨てました。猫は私たちの迷いの象徴であり、理屈であれこれと考え過ぎて、真実を見失いがちな私たちの心そのものを表しています。妄想や迷いを捨てて、事実をありのままに観察して素直に正しく受け止めようとするのが、禅の発想法です。
さて、南泉(なんせん)の一番弟子が、禅宗史上に名高い偉大な禅者である趙州(じょうしゅう)です。たまたま、趙州(じょうしゅう)が使いで不在のときに、南泉(なんせん)が猫を斬る事件がおこりました。夜になって道場に戻ってきた趙州(じょうしゅう)に、南泉(なんせん)が昼間の猫の話をすると、趙州(じょうしゅう)は奇妙な行動をとります。
いきなり自分が履いてきた草履(ぞうり)を頭の上に載せると、何も言わずにスーと部屋から出て行ってしまいました。趙州(じょうしゅう)が草履(ぞうり)を頭に乗せた姿を見た南泉は「お前がいたら、猫を斬らずにすんだものを!」と、大いに趙州(じょうしゅう)を誉めました。
趙州(じょうしゅう)が、汚れた草履(ぞうり)を頭に載せたのは、「この世の中に自分の物は何一つありません。すべては天から頂いた物、ありがたい預かり物です。」ということを示しています。南泉の思いを汲み取って、「師匠の教えをありがたく頂戴します」という意味も込められていたのでしょう。趙州(じょうしゅう)は、南泉(なんせん)の教えを無言のうちに全身で受け止めたのでした。

猫を斬るマネをしたり、草履(ぞうり)を頭に乗せてみたりと、やっていることは、まるで奇妙に見えますが、昔の禅匠は、それぞれに深い意味を込めてやっています。南泉(なんせん)も趙州(じょうしゅう)も、仏教の深い教えを伝えるために、あえて言葉で説明せずに、芝居のようなことをしているわけです。そこが禅の特徴であり、面白さでもあります。
なぜ、言葉でていねいに説明しないかといえば、言葉による説明は人を分かった気にさせるからでしょう。言葉や理論を覚えると、それだけで複雑な現実問題をさばけるような錯覚に陥ることがあります。
しかし、現実世界は、言葉ですべてを説明できるほど単純ではなく、常に複雑で矛盾に満ちています。そのような現実に立ち向かうには、「他人の言葉を覚えて分かった気になる」ことよりも、「常に疑問をもって自分の頭で考える」姿勢が大事です。言葉を覚えて満足しがちな私たち凡夫に対して、あえて意味不明な行動をしてみせて、大きな疑問を呼び起こすのが、禅の手法といえるでしょう。
なお、このような禅話は、その心を受け止めるべきであり、形をマネしてはいけません。意味も分からず奇妙な振舞いをすれば、単なる野狐禅(やこぜん)、インチキ禅になってしまいます。その点を間違えてはいけないと思います。

 

■松下幸之助氏の言葉に学ぶ

この禅話に関して、松下幸之助氏の次の言葉が思い出されます。

「自己を捨てることによってまず相手が生きる。その相手が生きて、自己もまたおのずから生きるようになる。これはいわば双方の生かし合いではなかろうか。そこから繁栄が生まれ、ゆたかな平和と幸福が生まれてくる。」
(『道をひらく』 p.66より)

「自己を捨てる」とは、南泉(なんせん)の教える「我執を乗り越え、思い込みにとらわれない」ことと通じています。「自己を捨てることによって相手が生きる」「双方の生かし合い」という松下幸之助氏の言葉は、利益ばかりに気を取られる現代人に対する頂門の一針です。私たちが競争社会の中で忘れがちな「和の精神」を思い出させてくれる名言であると思います。

また、困難なときの生き方について、松下幸之助氏は、次のような言葉を残されています。

「断じて行えば、鬼神でもこれを避けるという。困難を困難とせず、思いを新たに、決意をかたく歩めば、困難がかえって飛躍の土台石となるのである。要は考え方である。決意である。困っても困らないことである。」
(『道をひらく』 p.112より)

困難から逃げず、正面から困難を受け止めて、飛躍の土台石にするという力強い言葉は、松下幸之助氏のような人生の達人ならではの発想かもしれません。私のような凡人には、なかなかマネのできないことですが、困難から逃げると、いっそう困難な状況を招くことは、世の中でよくあるのではないでしょうか。飛躍の土台石とまではいかなくても、せめて困難から逃げずに前向きに立ち向かう気持ちを大事にしたいと思います。

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