心でも、仏でもない
2015-08-23
■非心非仏という禅語(2/2)
禅において、言葉は、あくまでも「あそこに月があるぞ」と、月を指さす「指先」にすぎません。
本当の「月」つまり、禅が伝えようとしている「悟り」は、言葉ではなく、体験的で直観的な知恵です。
「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」<心こそ仏である>という言葉をいくら覚えても、それは、「悟り」そのものではありません。
しかし、偉い先生が、わかりやすい標語を作ると、ついつい、その口真似をしたくなるのも人情です。
当時、馬祖(ばそ)の「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」という標語を覚えただけで、禅をマスターしたかのような誤解(思い上がり)をする人まで出てきたようです。
そこで、馬祖(ばそ)は、正反対の答えを言うようになります。
ある僧が馬祖(ばそ)に対して、
「仏とは、どのようなものですか?」
と大梅(だいばい)と同じ質問をしました。
そのとき、馬祖(ばそ)は、
「非心非仏(ひしん-ひぶつ)」と答えました。
「非心非仏(ひしん-ひぶつ)」とは、「心でもない、仏でもない」という、
心を否定し、尊いはずの仏様さえも否定する答えです。
馬祖(ばそ)といえば、「即心即仏(そくしん-そくぶつ)」<心こそ仏である>と答えるはずと思い込んでいた質問者は、正反対のことを言われて、さぞかし面食らったことでしょう。
さて、なぜ、馬祖(ばそ)は、同じ質問に対して、正反対のことを答えたのでしょうか?
また、「非心非仏(ひしん-ひぶつ)」<心でもない、仏でもない>とは、何を伝えようとしているのでしょうか?
どうぞ、つづきをお読みください。