無門関第35則「せい子が二人に分身した」

2014-08-30

倩(せい子)という娘の肉体と魂(たましい)が分離して、二人に分かれていたという一種の怪奇小説を下敷きに、五祖法演(ごそほうえん)禅師は、この公案を作りました。


「倩(せい子)が二人に分身したという物語があるが、

結婚生活をしていた倩(せい子)が本物なのか?

それとも、自宅で寝込んでいた倩(せい子)が本物なのか?」

と私たちに問いかけています。

ずっと自宅で病床に寝ていた肉体だけの倩(せい子)が本物か?、

あるいは、魂だけ遊離して恋しい男と駆け落ちした倩女倩(せい子)が本物か?という問題です。

魂(たましい)というと怪しげな感じがするかもしれませんので、

魂を心と言い換えてもよいでしょう。

肉体の倩(せい子)を本物とすると、心はニセモノとなります。

心だけ遊離した倩(せい子)を本物とすると、肉体はニセモノということになります。

しかし実際には、心だけで肉体のない人間はいません。肉体だけで心のない人間もいません。

生きている人間は、心と肉体と分けてみても、どちらが本物とも定められません。人間にとって、どちらも本物です。

このような人間の有り様を禅仏教では、「不二(ふに)」とか、

「一如(いちにょ)」と表現します。

「二ではない」、「一のごとし」ということですが、

あえて、「一」であるとは言いません。

肉体と心とは、イコールではなく、明らかに違いがあります。

しかし、切り離すことはできません。

そこで「一」とは言わずに、「不二(ふに)」とか、

「一如(いちにょ)」とか表現するわけです。

人間の内側において、心と肉体とが、「一如(いちにょ)」であるということは、人間の外側においても、精神と物質が「不二(ふに)」「一如(いちにょ)」であるというのが、禅仏教の世界観です。



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