無門関第38則「牛が窓をとおる」

2014-08-12

柴山全慶(しばやま-ぜんけい)老師は、さらに次のように書かれています。

この一身の「尾巴(びは)」には、出るも入るもなく、

「行くも帰るもよそならず」というのであろう。

(『無門関講話』柴山全慶著、創元社)

「この一身の「尾巴(びは)」には、出るも入るもなく、」

という前半の部分は、「尾巴(びは)」すなわち「仏性」は、宇宙全体に満ち満ちているので、出たり、入ったりという隙間(すきま)がないことを言っています。

「行くも帰るもよそならず」というのであろう。」

という後半の部分は、白隠禅師(はくいん-ぜんじ)の「坐禅和讃(ざぜん-わさん)」の一節を引用したものですが、悟りの境地にある人は、「どこへ行っても、そこが我が家のように、心が落ち着いて安らかである」という意味です。

坐禅によって、自己への執着から本当に離れることができれば、心はいつでも平安であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家にいるような安心感がある、という禅者の理想の境地を述べたものです。

本当にこうありたいと思いますが、私のような凡夫は、少し坐禅をして心が落ち着いたように思っても、何か事が起これば、すぐに動揺して、時には、我が家どころか、見知らぬ街をさまよっているかのような迷いや悩みを感じることがあります。

もともと、私は、気が小さく、くよくよと考え込みがちな弱い性質(たち)なので仕方がないのですが、それでも、坐禅と出会う前に比べれば、少しは改善しているように感じられるのが、坐禅のありがたみだと思います。

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