無門関第45則「他是阿誰(たぜ-あた)」

2014-08-06

自分で気がつくことを「冷暖自知(れいだん-じち)」とも言いますが、普通の水か、温かいお湯かは、手を入れてみれば、自ずと分かるという意味です。そのことを無門和尚(むもん-おしょう)は面白い表現で書かれています。

<評唱の前半:書き下し文>
無門(むもん)曰(いわ)く、

もし他(かれ)を見得(けんとく)して
分暁(ふんぎょう)ならば、

譬(たと)えば十字街頭(じゅうじ-がいとう)に、
親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが
如(ごと)くに相似(あいに)たり。

更(さら)に別人(べつじん)に問うて
是(ぜ)と不是(ふぜ)を道(い)うことを須(もち)いず。

<評唱の前半:現代語訳>
無門は言う、

「もし彼をはっきりと見届けることが出来たなら、
たとえば街の雑踏(ざっとう)の中で
自分の親爺(おやじ)に出会ったようなもの。

いまさらそれが、親爺(おやじ)かどうかなどと、
他人に聞く必要はないであろう」。

悟ってみれば、「街角で、自分の親にばったり出会うようなものだ」と言います。

親でも、友人でも、恋人でもよいのですが、良く知った人に渋谷や新宿の人の多い雑踏で偶然出会ったとしても、その人が自分の親であることは、すぐに分かるだろうという意味です。

逆に言えば、凡夫である私たちは、見知らぬ街で雑踏の中で道に迷っているようなものだともいえます。
ストレスに苦しんだときには、親を見失うだけではなく、自分を見失い、迷いに迷いを重ねるような苦しみを感じることもあります。

そのようなとき、禅や瞑想などにより、心の波を静めていけば、自分を取り戻して心が安らかになるということであると思います。

日本以上のストレス社会であるアメリカでは、300万人もの人が、禅に親しんでいるといわれていますが、それは、禅の功徳を示しているのでしょう。

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