禅の効用 「心に対する効果」-3

2013-01-13

2)「悟り」体験について

禅でいう本当の深いレベルの「悟り」を得ることは、簡単にはできません。
それこそ、禅の老師クラスにならないと難しいでしょう。
臨済宗の場合、禅の老師の資格をえるには、自分の師匠から「印可(いんか)」という証明書をいただく必要があります。禅僧のように、「僧堂」という専門の修行道場にはいって禅の修行に専念しても、「印可(いんか)」をいただくには、10年くらいかかるようです。(個人差があるので、一概にはいえないと思いますが。)

居士(こじ)といって、僧侶にならずに在家(ざいけ)のまま、普通の社会人生活をしながら禅の修行を極めて「老師」の資格を得る方もおられます。私の最初の師匠である白田劫石(はくた ごっせき)老師はそういう方でしたし、人間禅道場の老師方は全員、在家禅者です。

白田(はくた)老師は、千葉大学で西洋哲学の教授をしながら、人間禅道場で修行して老師になられましたが、老師になるまで20年くらいの修行をされています。それでも、人間禅道場では、最も早く老師になられた一人だと思います。多くの在家の修行者は、修行を楽しんで続けながらも、老師にならずに一生を終る方の方が多いのです。

私のような老師には遠いレベルの中堅居士禅者からみれば、老師の資格をお持ちの方は、すごく高いレベルの方ばかりです。老師方が、精神的にどれほどの高みにおられるのか、私にはわかりません。
ふもとから見たときに、山が高いことはわかっても、その高さが正確にはわからないように、老師方が大変高いレベルにあることは、すぐにわかっても、そのレベルを下から測ることはできません。

しかし、そのような老師方にしても、もしかしたら、歴史的に見れば、お釈迦様と同じレベルに達した方というのは、100年に1人くらいしか出ていないのかもしれません。
白隠のようなすぐれた禅僧のことを「五百年間出」といって、500年に1人くらいしか出ない優れた禅僧であるとほめたたえる言葉があります。そのような言葉があるくらいですから、禅の「悟り」の世界は、本当に奥が深いと思います。

しかし、「悟り」にも段階があるというのが、臨済禅の基本的な考え方です。最も初歩の悟り体験を「見性(けんしょう)」といいます。文字通り、「仏性を見る」という意味ですが、自分の中に尊い「仏性」があることをまざまざと体験的に知ることです。

この「見性(けんしょう)」のレベルであれば、老師の資格をお持ちの方に入門して、きちんとした指導を受ければ、多くの方が体験できます。それなりの努力をすれば、誰でも体験できるといってもよいでしょう。私も、20代の時に白田老師の指導の下で体験することができました。

しかし、「見性」体験は、あくまでも「悟り」体験の出発点であり、老師クラスになるには、たくさんの「公案」を使って、厳しい修行を何年も何十年も続けて、「悟り」体験を深めていく必要があります。
「見性」レベルでは、お釈迦様の「悟り」のレベルには、ほど遠いというべきでしょう。

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