禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(15)開催しました。

2015-06-16

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(15)開催しました。

この勉強会では、誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習します。
その後、『無門関』(むもんかん)、『碧巌録』(へきがんろく)など禅の古典から、現代に生きる私たちにも役立つ禅の話をご紹介させて頂きました。

だまって握りこぶしをつき出す

趙州和尚(じょうしゅう-おしょう)は、たくさんの禅的な逸話のある方ですが、今日も、趙州(じょうしゅう)の有名な禅話をご紹介致しました。

趙州(じょうしゅう)は、さっそく、庵主に向かって、「おるか、おるか?」と問いかけました。言葉の表面からいえば、「ごめんください」という挨拶のようですが、実際には、「肉体は、そこにおるが、大事な精神は、そこにあるのか?、心の主人公がお留守になっておらんか?」という禅問答の問いかけでした。

それを聞いた庵主(あんじゅ)は、だまって自分のにぎりこぶしを趙州に向かってぐぅーとつき出しました。「心の主人公は、ここにおるぞ!(迷ってなんかおらんぞ!)」という気合を握りこぶしで示したのです。

それを見た趙州(じょうしゅう)は、「お前さんでは、わしの相手に物足りない。」と捨て台詞をのこして、立ち去りました。

しばらく行くと、また一人で修行している別の庵主(あんじゅ)がおられました。趙州(じょうしゅう)が同じように、「おるか、おるか?」と問いかけますと、前の庵主と同じように、黙って握りこぶしをつき出したのでした。

それを見た趙州(じょうしゅう)は、「あなた様は、与えるも、取りあげるも、自由自在のお方です。恐れ入りました!」といって丁寧に礼拝したというのです。

趙州(じょうしゅう)は、二人の禅者に出会って、同じ問いかけをして、同じ答え(握りこぶしをつき出す)を得たのに、一人は、「お前はまだダメじゃ」とくさし、もう一人には「ご立派です」とたいそうほめたことになります。
「趙州(じょうしゅう)は、同じ答えに対して、なぜ正反対の評価をしたのか?」というのが、この禅問答の大事なポイントです

趙州(じょうしゅう)の問いは、「お前は、自分の心を見失っていないか?、自分で自分をしっかりつかんで、主体性を持っておるか?」という意味です。

それに対して、二人の庵主(あんじゅ)は、それぞれ、「しっかりつかんでおるぞ!」と言う意味で、黙って握りこぶしをつき出したのでした。

この握りこぶしは、「おれは、環境に引きづり回されたり、自分を見失ったりしておらんぞ。」と言う意味で、禅が目指す独立独歩の自主性を象徴するものです。答えとしては、立派な答えで、二人の間に明確な優劣があるわけではありません。

それでも、趙州(じょうしゅう)が一人のことは大いにほめ、一人のことは、大いにけなしたのは、庵主(あんじゅ)たちの心のあり方を探るためでした。

本当に主体性が確立していないと、他人や世間からほめられると舞い上がって自分を見失い、逆にけなされると、しおれて自分を見失うことになります。これでは、他人の評価に左右される生き方になり、主体性どころではなくなります。

ポイント

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

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