禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(17)開催しました。

2015-08-25

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会(17)開催しました。

この勉強会では、誰でもできる禅的な瞑想法として、イス禅を皆さんと一緒に実習します。
その後、『無門関』(むもんかん)、『碧巌録』(へきがんろく)など禅の古典から、現代に生きる私たちにも役立つ禅の話をご紹介させて頂きました。

■仏さまはどこにいる?

趙州(じょうしゅう)は、三転語(さんてんご)として、次の三つの言葉を残しました。第一は、「泥で作った仏さまは、水を渡ることができない」というものです。

昔の仏像彫刻には「塑像(そぞう)」といって、木の心に荒土や粒子の細かい泥をへらで盛り上げて作る技法がありました。まさに泥でつくった仏さまです。
「塑像(そぞう)」は奈良時代に流行った技法で、今日でも、法隆寺や東大寺に国宝となっている素晴らしい塑像(そぞう)がいくつも残されています。このような塑像(そぞう)は、土や泥でできているわけですから水に弱く、水に落ちたら崩れてしまいます。

第一の転語は「お寺に飾ってあるありがたそうな仏さまも、それが泥でできたものであれば、水にあたっただけで溶けてしまう。そんなものは、本当の仏さまではないぞ!」という意味です。

さて、次の第二の転語は、「金属で作られた仏さまは、溶鉱炉を渡ることはできない」というものです。

奈良の大仏は、近代以前につくられた金銅製の仏像としては世界最大級ですが、源平時代と戦国時代と2回も焼打ちにあって焼け落ちており、現在の大仏および大仏殿は江戸時代に修復されたものです。奈良の大仏の歴史を見ても、頑丈そうにみえる金銅仏といえでも溶鉱炉のような高熱には勝てないことは明らかでしょう。

第二の転語は、「立派に光り輝いている金銅仏も、溶鉱炉に入れれば溶けてしまう。そんなものをありがたそうに拝んでも、それは本当の仏さまではないぞ!」という意味です。

最後の三つ目の転語は、「木で作った仏さまは、火を渡ることはできない」というものです。これは説明の必要はないでしょう。
「立派な仏さまも、木製ならば火事で燃えてしまう。そんなものは本当の仏さまではないぞ!」という意味です。

さて、お寺の本堂に飾ってあって多くの人々が手を合わせて拝む仏像は、いずれも本物の仏さまではないというわけですが、この否定ばかりの「三転語(さんてんご)」の裏には、「では、本当の仏さまとは何か?」という問いが潜んでいます。

この問いに対する答えは、各人が自分で追及すべきとされていますが、実は趙州(じょうしゅう)自らが答えている言葉があります。

「真仏(しんぶつ)内裏(だいり)に坐(ざ)す」というものです。
「本当の仏とは、泥や金や木で作ったものではない。生きた仏は、めいめいの心の中に坐っておるのじゃ!」ということです。「自分の心こそ、真の仏であるということをしっかり坐禅して確認せよ」と教えているのです。

火でも燃えない、水でも溶けない(流されない)ものとは、物質的な存在ではありません。物質化してとらえることのできない私たちの「心」こそ最も尊いものです。
それを忘れて外側にある金銀や地位名誉など「物」を追いかけているからこそ、自分を見失って悩み苦しむのでしょう。これは、悩める存在である私たち凡夫への警告の言葉です。

ところが、趙州(じょうしゅう)の三転語(さんてんご)を取り上げた『碧巌録(へきがんろく)』という禅の古典では、本文ではこの言葉を削ってしまい、紹介しませんでした。「心こそ、心に価値ある仏である」という言葉を教えるとそれを暗記しただけで満足してしまうことをおそれたのでしょう。

名言を暗記することは、私たちの心に力を与えてくれます。「言葉には言霊(ことだま)がある」「言葉は力であり、光である」ということは、大事な真実だと思います。しかし、禅ではさらに一歩進んで、名言の心を自分で発見して、本当に自分のものにせよと迫っているのです。

このように答えを教えるのではなく問題提起をして、自分で解決させるという禅の指導方法は、人材教育においても大いに参考になるのではないでしょうか。

ポイント

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

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